歩いてたら汽車が通り過ぎたというだけの風景をクソ繊細に描きあげる梶井基次郎とかいう天才


ある夜、彼は散歩に出た。そしていつの間にか知らない路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大きな暗闇であった。探りながら歩いてゆく足が時どき凹へこみへ踏み落ちた。それは泣きたくなる瞬間であった。そして寒さは衣服に染み入ってしまっていた。
 時刻は非常に晩おそくなったようでもあり、またそんなでもないように思えた。路をどこから間違ったのかもはっきりしなかった。頭はまるで空虚であった。ただ、寒さだけを覚えた。
 彼はマッチの箱を袂から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。
燐寸はあった。手では掴つかんでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。
 暗闇に点ともされた火は、また彼の空虚な頭の中に点された火でもあった。彼は人心地を知った。
 一本の燐寸の火が、焔が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた――
 突然烈しい音響が野の端から起こった。
 華ばなしい光の列が彼の眼の前を過ぎって行った。光の波は土を匍って彼の足もとまで押し寄せた。
 汽鑵車の烟は火になっていた。反射をうけた火夫が赤く動いていた。
 客車。食堂車。寝台車。光と熱と歓語で充たされた列車。
 激しい車輪の響きが彼の身体に戦慄を伝えた。それははじめ荒々しく彼をやっつけたが、遂には得体の知れない感情を呼び起こした。涙が流れ出た。
 響きは遂に消えてしまった。そのままの普段着で両親の家へ、急行に乗って、と彼は涙の中に決心していた。