https://www.sankei.com/article/20220504-APOGIBWV6NOUHLLDSUHHS6YTSM/

「平和のための軍事力」直視を 防衛大学校教授・神谷万丈
軍事力の役割見つめ直す

ロシアのウクライナ侵略はなお継続中だが、日本人はこの凄惨な出来事を、平和のための軍事力の役割を正面から見つめ直すきっかけにしなければならないと思う。
軍事力は、平和を破壊する道具になり確かに危険だ。だが平和は、それを使いこなさなければ手にできないものだ。今回のロシアの暴虐とウクライナの果敢な抵抗は、それを雄弁に物語っている。
国際社会は中央政府を欠いた、国際政治学でアナーキーと呼ばれる状況にある。この状況下では国際法の力には限界がある。国内社会では、力の強い個人や集団でも、法に違反すれば政府やその機関である警察、裁判所、軍隊などにより罰せられる。だが国際社会には政府がないため、力の強い者のルール違反がまかり通ってしまいやすいのだ。
暴力行使をためらわない侵略者に対しては、話し合いは効果が乏しい。これもウクライナ戦争が示す冷徹な現実だ。話し合いというものは、それにより問題を解決しようとする意志が全当事者になければ成果を生み得ない。
今のロシアにそのような意志がないことは明らかだ。国内社会では、そうした者に対しては、裁判を起こすといった方法により政府の力を利用して圧力をかけ、話し合いに真剣に取り組むよう促すことができる。だが国際社会には、ロシアに圧力をかけることのできる中央政府がない。国連も主権国家の集合体で世界政府ではないため、対露圧力には限界を露呈させている。
アナーキーの下で暴力を振りかざす者から平和を守り抜くためには、軍事力で立ち向かうことがどうしても必要だ。ロシアが侵略を始めた時、誰もがウクライナは風前の灯だと思ったはずだが、開戦後2カ月を経てなおウクライナは甚大な被害に耐えつつ独立を保っている。それはウクライナ人が、平和のために武器をとって戦い続けているからだ。日本人は、その意味をよく考える必要がある。
独立は自らの手で守る
戦っているのがウクライナ人自身だということにも注目しなければならぬ。彼らが期待する西側の援軍は、今に至るまで来ずじまいだ。それでもウクライナが強国ロシアに屈さずにいるのは、自助努力のたまものだ。アナーキーの下では、自らの平和や独立を自らの手で守る決意が求められる。
むろん、米国と強い同盟関係にある日本は、ウクライナとは条件が違う。それでも、日本にも自助の決意は不可欠だ。自国を自らの手で守る覚悟が十分でない国のために、同盟相手が有事に血を流してくれるはずはないからだ。
今こそ日本人は、軍事力を持つことが後ろめたいことであり国の安全のためであってもそれを使うことはいけないことであるかのようにみる、という敗戦以来の思考様式から脱却せねばなるまい。
平和主義を捨てよと主張しているのではない。日本人は先の大戦から軍事力中心主義が国を誤ることを学んだ。日本をその方向に回帰させない決意を示すものとして平和主義は維持されてよい。だが、平和主義の名の下に、軍事力なくしては平和を守れないという現実から目をそらす、反軍事主義とは決別しなければならないのだ。
日本人が反軍事主義から脱却し、平和のための軍事力の役割を認めるようになれたとすれば、日本が保持できる軍事力の内容に関する考え方にも修正が加えられて然るべきだろう。
専守防衛のアップグレード
日本はこれまで、専守防衛の原則の下で攻撃力は持てないとの前提で防衛政策を組み立ててきた。だが今後、日本がいかなる兵器を持つかは、日本が守りたいと願う平和のために何が必要かという観点から決定されるべきだろう。ウクライナ戦争は抑止に対する日本人の関心を高めているが、攻撃力を持たない国は抑止力も持てないという事実にも留意する必要がある。自民党から「弾道ミサイル攻撃を含むわが国への武力攻撃に対する反撃能力」という表現で一定の攻撃力の保有が提言されたことは、この観点からうなずける。
こうした一定の攻撃力の保持は専守防衛の精神と両立可能だ。最後にこの点を強調しておきたい。
以前、本欄で述べたことがあるが安全保障学には「防衛的防衛」という考え方がある。国家が自衛には十分だが他国を侵略するには不十分という武力しか持たないことが平和につながると説くものだ。防衛のための攻撃力の保有を否定せず、全体的な兵器体系や政策のあり方で国の自衛への専念を示そうとする。それ以外は専守防衛とほぼ同じだ。かつて進歩的文化人の代表格だった坂本義和氏も、国会の憲法調査会で両者を同一のものとして説明したことがある。