『日本書紀』読んでたら、日本の主要な豪族が大体渡来系でワロタ [535650357]
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いうほど大体渡来系か?
古代で主要な豪族って尾張平群蘇我物部大伴佐伯中臣(藤原)紀土師(菅原大江)阿倍橘秦東西漢氏あたりが思い浮かぶけど
日本書紀で渡来系とされてるのはこのうち最後の秦と東西漢だけ
地方豪族でも国造本紀のなかに渡来系はいない
新撰姓氏録みると渡来系はかなり多いけどそれでも収録氏族のなかで3割未満だし上級官人をだすほど有力ではない
坂上田村麻呂とか島津氏とか宗氏とかが渡来系から出てるし桓武の母方も渡来系だからそれなりに存在感はあるけど
大体渡来系ってほどではないだろ >>731
チー牛だった朝鮮氏族は
戦国時代にはもう謀反で皆殺しにされてるんだけど
韓国の教科書には書かれてないんだろうな。
天皇が巨大権力を維持したまま
2000年支配したのが日本史ってことになってる。
そしてその天皇が朝鮮人であるというのが奴等の宗教。 再三のこれが現実
東大公式遺伝学研究成果発表
https://www.u-tokyo....ress/p01_241101.html
>その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
>一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスター(注2)に属することも分かった。
『本土人は集団としては韓国人と同じクラスター』
科学的事実に反する妄想こねくりまわしても虚しいだけ >>629
それ新羅本紀?
その頃に新羅は辰韓の12国の中の1国でしかなかったのに信じてるの? 日本で一番多い神社は八幡宮だがその八幡神は新羅国の神だったと豊前国風土記に残る >>724
楽浪海中に住む人たちを倭人と呼んでるだけだから中身が変わっても倭人のままなのは当然
太伯の子孫てのも倭の遣使がそう主張したって記録があるだけだしガバガバやん 日本書紀の通読ぐらいチョンモメンにとって当然の嗜みなんだろうなあ 日本人の発祥地は日本という謎理論はいい加減捨てるべき >>731
大体渡来系ってほどじゃなかったら>>663
何で我々、日本人には土着の縄文系の遺伝子が1割程度なの?
せめて現在の日本人に5割程度の縄文遺伝子があったら、あなたの言う事も説得力があるけど >>743
こういうの義務教育の教科書に載せるべきでは
なんでも人力の時代に猫背で脆弱ってのは意外だな
かしこまり文化と食い物のせいかな >>742
渡来人渡来系はふつう古墳時代以降に大陸から日本にきたやつらのことをさす
弥生人はもっと古参のやつら
古墳時代より前にとっくに縄文人の遺伝子はへってたのかもしれない
そしておれがかいたのはあくまで古代の主要な豪族の父系系譜
庶民のことや母系系譜については記紀に記述がほぼないからわからない
そっちではもっと渡来系のわりあいが高かったのかもしれない >>742
あと補足だけど
史料上渡来系じゃないというだけで史実で渡来系じゃなかったとはかぎらない
あくまで日本書紀の記述ではそうなってるって話だから実際は渡来系なのにいつわった場合もあっただろう
たとえば蘇我氏は本当は渡来系じゃないかって説はむかしからいわれてる
それと縄文人の遺伝子だけど遺伝子全体のわりあいから言えばかなり低そうだけど
Y染色体ハプログループDが縄文系だとしたら父系では3割から4割のこってることになる
これは父系系譜では非渡来系が多いという史料と矛盾がない 蘇我の韓人だか高麗だかいう人いるもんな
わりと近いところに朝鮮と血縁あるんだろうね >>731
ニギハヤヒ
ニニギは
高天原、つまり大陸から来てる
この子孫は天皇、物部 >>186
今でこそ先代旧事本紀が偽書で古事記は日本書紀と並ぶ歴史書の扱いだけど
江戸時代の半ばまでは古事記は偽書と見られてたのと
文字が理解できるかどうかで文明人かどうかを判断してたような時代では古事記は歴史学者に軽んじられる傾向にあったんじゃないの コメ文化なんか中国や朝鮮に文明ができあかったあと東のはてに渡来した文化だからな
ジャップの国民食はドングリ、クリ、クルミであるべき 広開土王が倭に新羅、百済が朝貢していたが、今は高句麗に朝貢してると書いたのが事実なら、
高句麗>倭>新羅・百済だよな 朝貢というのは貢物の何倍もの宝物を下賜しなければならない
中国はそれが出来たから盟主な訳
この時期のヤマト王権にそれが出来たとも思わないし出来てたら戦争にならないし第一日本書紀に記録するはず
広開土王碑は百済新羅をディスりながら打ち破った倭を大国に見せたかったのだろう >>750
弥生人とか渡来系や農耕都市文明を否定していくと
俺らは全員でチン毛モシャモシャで天パで身長の低い
縄文人になってドングリと貝を食うしかなくなるからな
流石にカンベンだろ >>753
縄文時代から稲作してたとかいう都合のいい研究出して終わりやぞ >>731
おれも桓武帝のこと思い出してたところ
少年期に母親の一族のところで教育を受けたとか聞いた >>680
高句麗百済新羅が半島北部でワイワイやってた間の話で南下始めたらあっさり撃退されてるんだよなあ
369年に百済(京畿道が中心地)と倭が交易を開始(倭に七支刀を贈る)
371年に百済は高句麗の平壌城を占拠
372年に百済王が鎮東将軍領楽浪太守に封建
391年に高句麗の広開土王が即位
391-396年の間に"高句麗の属国"であった百済・新羅を"倭の臣民"にしたため百済攻めを開始(大義名分?)
この前後に新羅が高句麗と倭の両方に王子を人質に出す
396年に高句麗が百済を攻め漢江以北を奪還し臣従させ倭国と手を切らせる
397年に百済が太子腆支を人質に倭の軍事支援をえる
400年前後に新羅の首都を倭軍が占領し高句麗がそれを討伐
404年に帯方郡にいた倭軍を撃退
407年に高句麗は攻めてきた倭軍を撃退 百済の6城を奪う
倭が百済や新羅を攻めて軍事力で権益を得ていた時代はこの10年前後だけと思われる
427年に高句麗は奪回した平壌城に遷都し百済攻略を本格的に開始
438,451年478年に倭の五王が宋へ朝貢し451年「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」の都督を任命された(北魏・宋にとって重要な百済の都督は認められず、役職も高句麗・百済より下のものだった)
454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘 この頃から新羅は高句麗から独立し始める
この頃は高句麗は北魏と親交し、百済は宋と親交していた
475年に高句麗の長寿王は百済の首都漢城を包囲・占拠し百済は一旦滅亡
百済は南の熊津(公州市)で復興する 合わせて小国が分立していた伽耶地方への南進が始まる
501年に百済の武寧王が即位し西南部を中心に領土拡大が進み倭との関係も深まる
510年頃から百済は伽耶を攻め始め、それに合わせて倭とは「南方進出の了解&軍事支援」と「五経博士の派遣」の取引が始まる
百済に任那4県を割譲(支配力はなかった土地の所有権主張を放棄する代わりに返礼を受けた?)
513年に伴跛国から己汶、帯沙を奪い西南部の権力を確立し、伽耶中心へ向け東進を開始する
この500-550年頃に全羅道栄山江(朝鮮西南部の海沿い)周辺で古墳が作られる(百済南進の容認・協力への見返り?)
524年に伽耶の中心的国家であった金官(魏志でいう狗邪韓国)を新羅が攻め、金官は倭に援軍を要請
532年、倭の仲介の効果はなく金官は滅ぶ 安羅は百済に救援を頼む
550年頃、百済は高句麗との対立が深まり百済から倭への支援要請が増える(代わりに学者や人質もらう)
551年に新羅は小白山脈を超えて高句麗の10郡を奪う
552年に百済・新羅は協力して高句麗の漢城を奪い返す だが漢城は新羅が占拠 これにより百済・新羅の関係は悪化
554年、大伽耶・倭国からの援軍を得た百済王は新羅の函山城を攻めたが戦死
百済王の死亡の混乱の中で562年までに伽耶地方の大半が新羅が占有される
564年、新羅は北斉に朝貢し、その翌年「使持節東夷校尉楽浪郡公」
伽耶奪回の為に百済と倭は協力して新羅を攻めていたが570年頃になると倭→百済への支援が邪魔な新羅は倭に「任那の調」を送ると倭は満足して支援をやめた
577年に百済が新羅に侵攻した際は倭は協力しなかった
579年を最後に百済は新羅への積極策をやめ軍事行動はとらなくなる
589年、隋が中華統一 高句麗・百済、少し遅れて新羅が遣いを送る
600年頃、百済・高句麗は協力して新羅を攻める 任那の調が滞っていたため倭もこれに協力する
618年、隋が倒れ唐が建国される
642年、百済は新羅の伽耶方面へ侵攻し40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える
643年頃から百済は高句麗と和睦し新羅へ侵攻 新羅は唐に援軍要請を出す
660年に唐より13万の兵が派遣され唐新羅連合軍に敗れ百済は滅亡した
663年に倭は百済王子(人質)と共に過去最大級の軍勢を送り白村江で大敗 百済は完全に滅びる
668年には高句麗も唐の侵攻で滅亡
670年には百済領をめぐって唐と新羅の衝突が始まり
678年に唐は新羅征討を断念した >>756
>404年に帯方郡にいた倭軍を撃退
これはびっくり 5世紀のはじめにそんな北まで進出していたのか
帯方郡は楽浪郡とともに漢帝国の領土だったことがある地域 >>751
百済は倭の協力を得て高句麗の平壌城を占拠してる
その20年後に広開土王により倭は撃退されるが
今度は中国宋と協力関係となり後に倭が宋に朝貢するけど倭は高句麗や百済より下の役職を与えられてる
新羅は当時小国で倭に首都を落とされたこともあるがそれを高句麗に助けられている
人質も倭と高句麗両方に送ってて当時は弱々だね 弥生~の日本と朝鮮を扱ったゲームって出ないよな
色々面白そうなのに 朝鮮人に支配されたってだけで元々住んでたのは日本人 >>757
平壌城は楽浪郡だから百済の手引きで手前の帯方郡まで来てたんだろうね 都市食うとこういうのが好きになるのはなんでなんやろな
昔から年寄りはこういう話すきよな >>761
なんだそうか
平壌といわれるとすごい感じはしないな 渡来人を重用してた時期の“日本人”自身は中華文明の言語文化とはかなり隔たりがあった(=直近のルーツとして中華帝国圏を持たない)とみていいんだろうな
さもなければ渡来人頼らないで自力で何かしらできるわけだし >>480
ブラジルとポルトガル
イギリスとアメリカ
日本と朝鮮 >>768
隣の東沃沮の記述に海の向こうの倭人らしき記述があるけど言葉が通じないらしい
沃沮も濊貊も言語は高句麗と似ているらしいから同族とすると少しおかしいな
海洋系狩猟を生業にしていた刺青文化のある倭人で、後に滅びたという解釈ならおかしくはないか🤔
魏志東沃沮伝
「(玄菟太守だった)王頎は別れて派遣され宮を追討した。北沃沮の東の果てへ行き着き、そこの古老に『海の東にまた人がいるだろうか。』とたずねると、古老は言った。『以前、この国の人で、船に乗って魚取りにでて、風のために数十日吹き流され、東の一島に着いたものがいる。そこには人がいて、言葉は通じなかった。その風俗では、常に七月に童女を取りあげて海に沈める。』また言う、『一国がまた海の中にある。女ばかりで男はいない。』また告げた、『海の中から浮き上がった一枚の布の服を手に入れた。その体の部分は中国人の服のようだったが、両袖の長さが三丈もあった。』『また一艘の難破船を得たこともある。波に打ち上げられて海岸のほとりあったが、一人の人がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じず、食べることができずに死んだ。』その地域はみな沃沮の東の大海中にある。 2~3世紀 倭人の習俗『魏志倭人伝』
男子は大小と無く皆、鯨面文身す
男子は皆、露紒し
木綿を以て頭に縛り
其の衣は横幅、但々結束して相連ね、略々縫うこと無し
渡海して中国に詣でる際は常に一人を頭は櫛を通さず虱のいるまま衣服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにしておく、これの名を持衰という
卑弥呼が絹織物を、魏の皇帝に献上
弥生時代は養蚕と絹織の技術は北九州にしか無かった
4~5世紀 四道将軍、景行天皇、神功皇后、雄略天皇
奈良県から高塚式古墳が全国へ拡大
北九州~朝鮮半島~南東北を平定『東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國』
5~6世紀 宮崎県えびの市島内地下式横穴墓群人骨の習俗
赤色顔料の塗布
縄文形質
蛇行剣を用いる
7~9世紀 夷人雑類(化外の民)とは、エミシ・クマビト・アマミビト等の類を謂う
肥人の習俗
肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我忘れめや(万葉集)とあるように、結髪法も大和人の髻と違った額髪であり、
染木綿で頭を捲いていたことは隼人と同じであって、今日、東南アジアにも見られる習俗である
(西九州古墳人・箱式石棺墓)底顔という点では南九州古墳人をしのぎ、大腿骨骨体の柱状性も強い
隼人の習俗
朱丹・顔面塗布
白・赤に染めた木綿の耳形鬘(南西アジア・東南アジアにみられる「裏頭」の系統を引くともされる)
大横の布衫
緋色の肩布 >>770
西九州は沖縄と弥生時代迄交流してたのは確認出来てるが、その言葉は平安時代頃の形跡もあるらしいから案外、遅い時代にもヤマトの目を盗んで交流はしてたのかもね
倭寇とか言うのもその頃からあったのかも知れん 大国主が九州北西部から上陸して東征していった初期の大派閥だったのだが
出雲から上陸した派閥との争いに敗北して国譲りとなる
平安期に日本書紀で改ざんが行われて大国主の逸話はヤマトタケルの話になったりと敗北者の神話は消えていった ヤクザ、パチンコ、焼肉屋は朝鮮人率高い
精肉系は部落
あとは、医者や歯医者も朝鮮人が多いね 本当の日本原住民なんてせいぜいドングリ拾うくらいしかできないもんな
狩猟も農耕も全て渡来人が持ち込んだ技術 >>779
基本的に士業は在日が多いね
資格試験に差別はないし資格さえ取れば安定して働き口があるから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています