73年5月20日昼。川崎市の運送会社に勤めていた上原さんは、大型バイクで国会議事堂正門の鉄扉に激突し、死亡した。ブレーキ痕はなく、スピードを緩めず突っ込んだとみられる。遺書はなかった。
「自分の中でずっと考えてきた。普通の事故じゃないですよ」。安房さんはヘルメットを見つめた。
2人は米軍施設に囲まれた地区で生まれ、戦車や武装した米兵が行き交う環境で育った。上原さんは高校中退後はコザ市(現沖縄市)の米兵相手のバーで働き、71年に上京。安房さんは事故後、国会も下宿先も訪ねたが、死の理由は分からなかった。
彼の死の意味を知りたい−。日本テレビ記者だったジャーナリストの森口豁(かつ)さん(84)=千葉県松戸市=は、上原さんの友人らに取材を重ね、78年にドキュメンタリー番組を制作した。
取材では、70年にコザ市で民衆が米軍関係者の車を焼き打ちした「コザ暴動」に加わり、放火の疑いで逮捕されていたことが分かった。運送会社の同僚に、政治への不満をしばしば口にしていたことも分かった。
復帰しても沖縄には基地が残り、故郷では住民の頭上を射撃訓練の実弾が飛んでいた。一方で、本土では「復帰で沖縄問題は終わり」という空気が漂っていた。森口さんは「考えれば、復帰と同時に沖縄から離れていった政治への怒りに行き着く。将来の沖縄が少しでも良くなってほしいと願っての行動だったのではないか」と話す。
喜瀬武原の自宅での取材が終わると、安房さんは庭に出て集落を囲む基地を見渡した。山奥からは訓練の銃声が響き、頭上を米軍ヘリが飛んでいた。
「沖縄は何も変わっていないよ、ずっと」https://news.yahoo.co.jp/articles/e246c81736efe4ba44334646fb74eff088574e2d