なして君ら「ポストモダニズム」嫌うの?いま俺たちの直面してる問題こそリオタールの言う「大きな物語の終焉」そのものなのに [511393199]
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ビジネスの現場で「ナラティブ」というキーワードが注目されつつあります。ナラティブとは、人びとが自分自身の体験から紡ぎだす言葉(物語)であり、語る人と聞く人がともに創り出す物語ともいえるもの。では、なぜ企業のコミュニケーションにナラティブが求められるのでしょうか。マスメディアを通じた発信に慣れたマーケターにはしっくり来ないかもしれません。
本稿では、書籍『ナラティブカンパニー 企業を変革する「物語」の力』の著者でPRストラテジストの本田哲也氏と、マーケティングや広告・メディア事業のコンサルタントで社会構想大学院大学特任教授として教壇にも立つ高広伯彦氏が、2回にわたって「ナラティブ」をテーマに語り尽くしました。話題は社会学から哲学、人気アニメ、パーパス、と縦横無尽に広がって……。
ナラティブには語り手の人生が表れる
本田:『ナラティブカンパニー』の刊行がおよそ1年前のことですが、ここ最近マーケティングやブランディングの文脈で「ナラティブ」が話題に上ることが増えていると感じます。ナラティブ(narrative)は「物語」とか「語り」と訳されますが、一方で色んな解釈がされやすい言葉でもあります。
注目されつつある今だからこそ、改めてナラティブの本質について高広さんと掘り下げていきたいと考えています。
ナラティブという言葉は1990年代ごろから出てきていますが、当初は主に医療や教育の分野で使われてきました。ビジネスの世界で注目されてきたのはここ4~5年のことではないでしょうか。行動経済学の権威でノーベル賞受賞のロバート・シラー先生(イェール大学教授)による『ナラティブ経済学』(2019年)はその契機のひとつと思います。
高広:今回の主旨を聞いて、ナラティブに関連する書籍を持ってきました。
高広:まず「ナラティブ」は身体性を伴うもの。書き言葉との対比でいうと話し言葉の側にある概念といえます。
本田:やまだようこ先生(心理学者・京都大学名誉教授)の『ナラティヴ研究』でも指摘されていますね。語られた内容を、語りの要素を残しながら再構築するのがナラティブ。語りの身体性が重視されるのは経験や考え方など、語り手の人生が表れるからでしょうね。
大きな物語の時代が終わり、無数のナラティブが生まれた | AdverTimes(アドタイ) by 宣伝会議
https://www.google.com/amp/s/www.advertimes.com/20220526/article384710/amp/ >>1
逃井逃一がポスモダとかギャグにもならねえな なんかポストモダンって広告業界の人が好んでる気がするんだけどなんで 学をひけらかすだけで当事者意識ゼロの冷笑逃井逃一みたいにはなりたくないね 「大きな物語」とかもともとないから
そんなものがかつてあったって思い込むことが
そもそも西洋人やその文化の追従者だけの「大きな物語」なんだよ イデアに対するアンチイデアとかの話なんでないの?🤔
そもそも無いものに無いと言っても意味が無いというか考えるだけ無駄な気がするんよ ジャップポストモダン(笑)とか単なる馬鹿のニヒリズムでしかないからだろ
具体的な政治運動への接続のないようなポストモダニズムになんの意味があるのか あの早稲田のドゥルーズ研究者の出した分厚いコンメンタール
買うか迷ってる 孤立化および分断という大きな物語
われわれはその流れを気づかないが歴史は動いている
ヘーゲルのいう「List der Vernunft(理性の狡知)」のようなもの 正直言って、ポストモダニズムは「ポストトゥルース」「歴史戦」、
普遍主義にたいする懐疑論や優生思想(ニーチェの『悦ばしき知識』も源流)
ネトウヨサイドに哲学的な基盤を与えるという結果になっていると思う
(ガブリエル・マルクスは、トランプのことを「ポストモダニズムの天才」と
呼んだことは大変示唆的) 俺たち弱者男性の為になる思想なわけ?
エリート上級だけだろ関係あるの 「大きな物語」が終焉したとか恥ずかしくて当の本人達も言えないから
本人たちのこだわりのディテールについてはそうかもね?がせいぜいだから
フーコーをポストモダニズムに入れたら殺すとフーコーが言ってた 何度か書いてるがソーカル事件あってサブカル語りを難しげな横文字で粉飾する路線はもう終わってんだからそろそろ政治の話に戻せよ
元来党派というか共産党に依らない市民運動擁護して伸長させてくための思想だろうが
ポストモダニズムにまだなんかしら意味があるとするならもうそこにしかないぞ >>17
本人たちはそういう大文字の政治の話は終わったというのが前提としてあったのだから期待や失望の仕方が間違っている >>13
> 孤立化および分断という大きな物語
> われわれはその流れを気づかないが歴史は動いている
孤立化はともかく「分断」は、テレビのMCでさえしょっちゅう口にするワードですね
トランプ現象、ブレグシット、あとは香港の自治権をめぐる先の闘争でさえ市民間の「分断」
を助長してるとかそういうレトリックでね
また「理性の狡知」だが、理性の狡知とはたとえば、20世紀の2度の世界戦争をへてはじめて
国連=平和のしくみが創設されたというような、「戦争が平和をもたらした」みたいな
アイロニーを指して言われるはず >>18
大文字の政治の話っつーのは党派の話であって思想自体の話ではないぞ
大文字の政治がそのまんま全部終わったならスラヴォイ・ジジェクが共産主義者名乗ったりルイ・アルチュセールがマルクス読解通して新たな統治について考えるなんてするわけねえじゃん >>15
弱者男性にも人権があると言いたいなら、ポストモダニズムは
助けにならない
弱者とか強者とかいう区別を相対化して、そのまま救われたいなら
助けになるかもしれない
そういうところは老荘思想に似た結果になる可能性を秘めている >>18
> 本人たちはそういう大文字の政治の話は終わったというのが前提としてあったのだから
それ、壮大な勘違いでしたねw
黒歴史だと思う >>14
> (ガブリエル・マルクスは、トランプのことを「ポストモダニズムの天才」と
> 呼んだことは大変示唆的)
しかし、トランプを台頭させた原動力とは、グローバル経済による格差の激化で落ちこぼれた
者たち(白人底辺)であり、本来切実な異議申し立てであったはずのものだ
にもかかわらず彼らは「俺たちを救済せよ」とストレートに表現することを忌避し、
トランプはその忌避の動機を敏感に感じ取り、トリッキーなレトリックでそれを表現した。
それを「ポストモダンの天才」とすべきかな?
まあ読んでないのでなにも言えないのだが だって日本は近代になってないのに
ポストモダンって何言ってるの?
まず個人を確立しろよ トランプもだしわが日本の西豚もだがポストモダニズムは大文字の政治党派の終焉を謳ってそれらを相対化しつつ新たな連帯や政治運動展開してくはずのものだったのが
相対化の段階で止まって旧来の保守的思想や愛国主義に回帰しているというのが一番の問題
なんでそうなるかもわかってるんだから対処すべきじゃねーの
西豚は手遅れだが >>23
Qアノンとか、ああいうのは近代啓蒙主義が幅を利かせている時代だったら
あんな大きな勢力にはなれないんだよ
昔の共和党だったら、「フリンジ」扱いして表に出れないように
していたはず 歴史は一つじゃないというポストモダニズムの歴史観は
本当に有害だったと思う >>25
旧来の保守的思想どころかおよそ思想らしいものが全くなかったところと
大きな物語がかつてはあって、一度文脈というものが失われたところと、少なくとも見かけのうえで同じだろうくらいのアイロニーは日本の自称ポストモダニストたちにはあったよ
結局どちらも現実に直面することになったが >>1はポストモダンとポストモンダニズムを混同してるように思えるが
ポストモダニズムは1990年くらいにとっくに終わった
ポストモダンという概念も諸派あるがもう終わってると考えていいんじゃん
話が30年古い ちなみに「ポストモダニズム」というのは建築と芸術と文学とそれにまつわる
記号論とか哲学の流派の概念
ピンチョンとかバースとかウォーホルとかバスキアとかその辺
多分このスレで書いてる人々は「近代」が終わった後の「現代」
という意味で使いたいんだろうけどその訳語は「ポストモダン」
間違えると恥ずかしいので間違えないように ちなみに未だ「ポストモダニズム」やってるのは建築系でわずかに残ってる
(国立競技場問題で有名なザハハティドとか)が美術文学系でまともに認知されてる
活動してるのはトマスピンチョン(85)だけ
コイツしんだらポストモダニズム系は絶滅
(生きてるだけなら日本の高橋源一郎(71)とかもいるが)
ピンチョンももう新作出ないだろうしポストモダニズムは
芸術運動として終わったといって間違いない ポストモダンの人たちって戦争とか災害が起こったら大喜びしてそう ポストモダン思想は、日本においては萱野稔人に至って国家主義と接続した >>31
文学だとポストモダン系ってピンチョン以外にまだ書いてる作家いるだろう
ドン・デリーロやスティーヴ・エリクスンって扱いポモじゃねえの
もう少し新しいのだとデヴィッド・マークソンとか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています