https://bungeishunju.com/n/n25a5de8b85b4

「レガシーづくり」に取りつかれた男

プーチンが狂気の沙汰ともいえるウクライナ侵攻に突き進んだのには、いくつかの理由がある。

まず、プーチンの統治の特徴は、「大国復興」という帝国主義の幻想によってロシア市民をつなぎとめてきたことにある。
対外武力行使に訴えるのは、プーチン体制の核心といっていい。一九九九年の首相就任後すぐにチェチェン戦争を仕掛けて国民の支持を獲得し、
エリツィンの後継者として翌年の大統領選での勝利につなげた。二〇〇八年のジョージア侵攻や二〇一四年のクリミア半島併合でも求心力を高めている。
そして今回、コロナ危機の打撃を受けたあとにウクライナへの侵攻に踏み切った。

次に、コロナ禍の中でプーチンが人と会うことを避け、二年にわたりごく限られた人としか交流しなかったことも影響しているだろう。
プーチンが最も多くの時間を一緒に過ごしたのはユーリー・コバルチュクだ(注・ロシア銀行の筆頭株主で「プーチンの個人バンカー」とも呼ばれるほど親密な関係にある人物)。

コバルチュクは帝国主義の熱心な信奉者であり、プーチンはそうした考えにより傾倒していった。

さらに、ロシア情報機関の幹部やウクライナの協力者たちが、ウクライナ情勢について、プーチンに誤った情報を上げていたこともある。
連邦保安庁(FSB)幹部セルゲイ・ベセダや、プーチンが娘の代父であるウクライナの親ロ派政治家ビクトル・メドベチュクらだ。
「ゼレンスキー政権はロシア侵攻に組織的に抵抗する能力はなく、すぐに崩壊する」「多くのウクライナ人はロシア軍を歓迎するだろう」といった見方がプーチンに吹き込まれていた。

そして何よりも大きいのは、プーチンがレガシーづくりにとらわれていることだ。プーチンは今年七十歳になる。
二十年以上も権力に君臨し、先が短いことを悟ったいま、彼は偉大な指導者として歴史に名を刻もうとしているのだ。
ウクライナに誕生した東スラブ民族の最初の国家、キーウ公国で東方正教を国教化した伝説的な大公ウラジーミル(ウクライナ名はボロディムィル)と
肩を並べる存在になりたがっているのだろう。プーチンが二〇一六年にクレムリンのそばに大公の像を建造していることからもそれがうかがえる。