家康「イヤェァァァ!!秀頼が『国家安康』とか言ってアチシの斬首を企ててるぅぅ!豊臣滅ぼそ!」👈こんなの許されるんか? [387413547]
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これ考えたやつマジで頭クルクルスットンパーだろ
しょうめい‐じけん【鐘銘事件】
慶長一九年(一六一四)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。 大坂冬の陣のきっかけとなった。
https://kotobank.jp/word/%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6-79894#:~:text=%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%81%E3%81%84%E2%80%90%E3%81%98%E3%81%91%E3%82%93%E3%80%90%E9%90%98,%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
だから家康嫌いなんだよ 難癖はどうでもええ
政権取ったなら寝首を掻かれん用しっかり殺しとくんだよ
わかったかい民主党くん 既に覇権が徳川家康に移ってて
ただのつじつま合わせでしょ そもそも一代限りって約束で権力継承に割って入ったのに
二代目誕生は無いだろ これだけ家康側につくってどんだけ豊臣勢嫌われてたんだよ 権力の3重構造は治世の混乱を招くだけ
権威付けに利用するお飾りは天皇だけで十分 朝鮮戦争しかけ日本を疲弊させた豊臣なんて滅ぼされて当然だし鎖国も自然な流れだとおもうんだけど 死ぬ前にちゃんと後始末したんだから有能
鎖国も当時の世界情勢を見ると正解だし 名前を切り離すのもそうだけど諱をそもそものせるのがアウトっぽいよ
豊臣は名字だからおけ >>14
秀吉、普通に無能だよな
しょうもない人材しかいない日本列島内で言えば最高クラスなのかもしれんけど、ワールドクラスで見たら朝鮮半島一つ落とせずすごすご引き下がる雑魚
侍は満州の荒地に住むルンペンみたいな遊牧民以下だよ そもそも孫の婿だし最初は殺す気なんてなかったんだよな
大阪城から退去しろって何度も説得してるし やられたから滅ぼすじゃなくて滅ぼすための強引な言いがかりだし 葵徳川三代
語り水戸光圀「淀殿は女ざかりの未亡人!絶世の美女」→小川真由美60歳 野党がいくら主張しても森友疑惑で証人を呼ばなかったのに、安倍を侮辱してるとか言うて国会に証人喚問で呼び出すこともある そもそも家康が潰しにかかってるのに呑気に大金使って寺建てるな 家康の名前で遊んだれwwwってやったら豊臣潰す口実探してた家康に利用されただけじゃね 徳川の譲歩策を飲まなかったのは豊臣なんだよね
秀吉だってそれで主君筋の織田信雄を改易したわけで 当時は普通に呪詛とか行われていたからな、しっかり文面チェックすべき >>31
治世者の名前を引き裂くのは当時で現代でもマズイらしいよ オランダの大砲のテスト
戊辰戦争も米国の南北戦争終結後に不要に鳴った武器の転売先 訳の分からん寺にかける金を朝廷に送って徳川より上の官位に立たないと話にならない 信長「イヤアアアアアア家康の息子が我を殺そうと謀っているのおおおおおおお!!!」
が家康の「イヤアアアアアア我の息子が我に反抗的なの多おおおお!!!」が実態だったのを覆い隠すための作り話だったの草 >>42
譲歩案を飲んでたら高家になってたんだろうな
かつての主人で自ら滅ぼした今川ですら高家入りしてるし 鎌倉殿の13人で描かれる「謀反」と同じだぞ
難癖つけて殺すのはジャップしぐさだ でもあれそんな都合よく家康とか豊臣の字入れるか
割と入れた方も内心そんな感じで入れたんじゃね? 家康「側近クンさあ、なんか大阪攻めの大義名分考えてよ」
みたいなパワハラの成果だと思うと >>49
血筋はいずれ松平の名前をもらって
親藩や譜代格になってた可能性もある 鐘の文字より徳川直臣でもある片桐ぶっ殺そうとしたのが大義名分与えてしまった もし秀頼と千姫の間に男児が生まれてたら、その子も殺したのかなあ
ひ孫だけど 秀吉が実子にこだわってなけりゃな
信長よりひでーベ 先を考えたら存命のうちに豊臣は潰さないとってなるよな 大和か伊勢への転封を受け入れて
江戸に淀君と千姫を住まわせて
鼻毛伸ばしてバカのふりしておけばね 最近の研究では秀頼の側でも起死回生を狙って挑発をしていたという説も有力
譜代がどんどん脱落していく中で
徳川の臣下として生き延びるよりは
豊国大明神の嫡男として堂々合戦で雌雄を決しようとしたとか
結果は敗れはしたけれど秀吉の息子として恥ずかしくない散り際だった >>24
そのルンペンにどうか併合してくださいとアタマ下げて20世紀朝鮮人の立場って(笑) 大阪夏で真田に首取られて影武者家康がその後とおちしたんだよね、、、かわいそう 秀吉「よーし、徳川だけ朝鮮出兵させず関東に巨大な領地与えて秀頼のことを頼んだぞ!これで安心だ」
↑
こいつ 国家安康については引き裂く以前に
家康の諱を出した時点で礼儀としてアウトだって説もある メリケンだってロシアだってやりたい放題してるのを止められないし変わらんな いちおう増上寺の坊さんになった秀頼の息子がいる
徳川の菩提寺なので知ってたが見て見ぬふりしてた 墨俣一夜城
備中高松城の水攻め
鳥取の飢え殺し
中国大返し
三日天下
清洲会議
フェイク込みの情報戦なら家康は相手にならない、舐めプしすぎ 秀頼の子孫が現存してたら
「でも秀吉の子孫じゃないよね」とか陰口叩かれるし、きれいさっぱり無くなってよかったんじゃないか 秀吉「数少ない親戚の秀次の家系と家臣を皆殺しにしたぞ!これで安心だな」 鉄道爆破の自演を2回するより
無理矢理こじつける方が
まだ良心的 実際狙ったかのようなフレーズばっか繰り出してるし他意はあったんじゃ? つーかちょっと前まで戦国時代で下剋上でござる!wみたいな風潮だったんだし
うぜーから潰すはwでいいでしょ まあ難癖だろうが約束無視で掘り埋められようが
弱いのが悪いな >>77
老い先短い権力者としては当然のことをしたんだよな
秀頼があと20年早く生まれていれば 武装勢力が政権取ったらまずやるべきことは政敵の粛清なんだから当たり前よな
現代でも行われてる真っ当な行為やぜ 後任にトップの看板譲ってから10年経ってもしゃしゃり出てる上に何か切れてる安倍に対して
「ハイ、かくし題として意図的に晋と三の字を差し込みました」って申し開きまでしてしもて
「ナーホド(なるほど)。」で収まるか?言う話よ
このままでは示しがつかないという結論に至った、が必然やろ >>63
おそらく殺さなかったはず
孫娘である千姫がそれこそ命を賭けかねないし
淀と秀頼が排除できれば後は松平の一族として遇されただろう
千姫との間に子ができないよう妨害したのが淀だって説があるが
もし、そうなら自分や秀吉や息子の血筋を残すチャンスを自ら捨ててたんだから
徳川への対応を含めて滅亡したのも当然って感じもある 方広寺のあれだけデカかった敷地が今あの鐘を置くくらいのちょっとしたスペースしかないの悲しいよな
諸行無常 君臣豊楽もセットであったんだろ?
今でも似たような言いがかりは普通にありそう 大坂冬の陣では徳川方に大損害を与えて講和
夏の陣も十分な兵糧を確保出来なかった徳川方が
短期決戦を挑まざるを得なくなって無理攻めして大損害
徳川のプロパガンダで無能の印象を植え付けようとしても
結果から見ると秀頼は少なくとも無能惰弱ではなかったことは明白だよね >>24
確かにそう思うわ
信長の野望だと知力98とかあるけど、ワールドクラスで見たら多分85くらいだろう >>93
現物みればわかるけどクッソ細かい文章の一部で良く見つけたなレベル 石山本願寺→信長相手に10年持ちこたえたる
有岡城→ちっこい平城なのに信長相手に1年持ちこたえる
大阪城→半年で落城 大量破壊兵器なんて無いのに開戦した常任理事国もおったし >>94
講和を求めたのは大砲にビビった淀ら城の女勢だって話があるから
最高権力者なのにそれを抑えられなかったなら有能とまでは言えないし
内堀だっていくら突貫工事でも直ぐには埋まらないんだから
それを事前なり途中で阻止できなかったのなら政治的に有能だったかも微妙だと思う >>97
石山本願寺は阿波の三好、安芸の毛利、西国門徒から補給を受けてた
有岡城は城下町を抱え込んだ総構えの大城郭 未だに豊臣秀吉は好かれてるけど家康ってどう?
東照宮もただの観光地で家康を拝めてるやつなんて誰もいないと思うわ 三大無能跡取りって秀頼、勝頼、氏真ともうひとりは誰になるん? >>102
俺は好きだぞ最終勝利者だしな
つーか秀吉も一時期謎の人気があっただけで今はそんなに人気ないっしょクソ猿だし
信長だけがぶっちぎりで人気 いくら孤立無援とはいえ大坂城一年もたず落城は無能だわ >>99
大砲でビビったというのが巷説の類なんで信用に足りない
そもそもたった五門やそこらの大砲でダメージ食らう城じゃない
大坂城に大量に打ち込まれたとされる芝辻だって発掘しても砲弾が見つからず
後世の作り話だったとされている
大坂の陣の徳川方の記録は嘘まみれなのが明らかになってるので
講和の条件などもブラックボックス >>78
こんな感じでキャッキャやってたら許してくれなくて本気で追い込みかけられたようなもんだな
んで後世の人間が、あれは言いがかりだ、いや当時でも侮辱罪でアウトとか言ってんの 大阪の陣の豊臣軍はかっこいいけど
豊臣家はどーしようもないぞ まずその家康だけ東に左遷したから安心やーってのがわからん、寧ろ目の上のたんこぶなら朝鮮出兵させとくべきだったのでは? 人間歳をとると晩節を汚すっていうけど
これがあるせいで家康は印象悪い >>104
前線まで黒いアラブ馬で督戦に出ていたという記録があり
その記録を裏付けるように秀頼の遺体と共にアラブ馬の骨が出てきたので
城に籠り切りだったかは意見が分かれる >>102
秀吉が特別に好かれてるのなんてせいぜい大阪じゃね?
それだと終焉の地である静岡の駿府とか出生地の岡崎とか普通に人気だろうし
>>107
それを言い出したら
秀頼が有能かどうかなんて妄想でしかなくてもっとわからない話やん >>115
面白いな。司馬のレポートだと出てこなかった説 >>116
日本全国を敵にまわして
最後まで堂々と戦い抜いただけでも
武士としての名誉を保つには十分すぎでしょ?
孤立無援でも最後まで5万の軍勢の統制を取れてたんだから
これを無能と言うには無理がある >>112
そもそも秀吉は家康を潰すためじゃなくて
政権の重鎮として関東に置いたんじゃないのか >>119
生母を人質に出すくらい裏で土下座してたしな もうちょっとまともな言い訳考えなかったんかな
デタラメなんて簡単だろ
メシに毒が入ってた、豊臣の間者のしわざと分かった、とか、デタラメ言えば済む
それとも「とにかく難癖付けて潰した」という事実を残したかったんかな >>70
>>112
徳川も万余の軍勢を渡海させる準備をしていたが
延期になっているうちに秀吉が病死して中止になっただけ
秀吉が健康なら徳川も軍勢を派遣してたよ
あと関東への移封は左遷ではなく大栄典 >>112
後々の目線で見れば朝鮮出兵は失敗だったから
あっちで徳川の戦力を削いでいればって思うかもしれないが
朝鮮で凄い軍功を立てられて朝鮮でさらに徳川の領土を増やされたら
それはそれで、秀吉が徳川を潰す口実を作るどころか
徳川を潰すのを困難にする更なる軍事力を持たせてしまう事にもなる なんならスパイが殺されたのを腹心が殺されたとかすげ替えたり盧溝橋みたいのやって適当な理由作るだけだろ 羽柴秀長とその家の始末っぷりをみての藤堂高虎のムーヴと観ると印象が変わる
隠居までしてるし >>81
銃ありで無なかった民にボコられる始末だし >>121
すでに健康状態が悪かった説はあるね
夏の陣の翌年に死んでるだから 難癖付けるのはジャップの国技だぞ
それは石器時代から変わらん 学校や職場でそういう無理筋が通るのを幾度となく見てきただろ
そういう無理筋を許さない!って綺麗な世界なら、とっくにいじめとか無くなってる >>116
京都に行ったときに京都人と話ししたら秀吉好きだったんよ
んで関東の悪口すげー言われたから未だにそういう感じなのかと思ってた 息子の秀頼は誕生
→後継者扱いだった関白 秀次の謀反をでっち上げ
→一族郎党を根絶やし
やられた側の秀吉もやってたわけで
こじつけは日常茶飯事
ラッスンゴレライ >>129
自身の仕事を最後までやり遂げた安堵から
これまでの不調が一気に来た可能性もある気がする
豊臣を潰して、家康が徳川の為にやるべき事はほぼ終わったしな てかこんなもん難癖つけてくれって言ってるようなもんだろ
作る前に考えろや 避諱を知らないジャップランド知識人の程度が知れる話 >>118
冬の陣は中途半端に和睦しちゃうし夏の陣は野戦なのに出陣もせずあっさり負けちゃうしでなんかあんま有能なイメージないのよね
むしろ大阪城とそんだけの兵いたらもっと上手い戦い方できたんじゃないかと思える どうせ難癖つけて潰されるのに天下を狙うなとかいって死んだ毛利元就って無能だよな >>118
最高の駒が真田幸村とかもうなんかね。淀君はうるへーから出家させて大人しく大和一国で満足しとけば良かったんよ。 豊国神社にあの釣り鐘を見に行ったけど
国家安康君臣豊楽のところいバッチリここですと印がつけてあって
文化財にこんなことしていいのかと思った
それともあれレプリカなのかな 秀吉よりも過激だと言われていた信長は子孫が生き延びて
フィギュアスケート選手の織田信成になった 秀頼って大野治長の子供だって話あるけど
当時の連中も、秀吉の実子でないだろうって薄々感じてたんかな?
主君殺しに近い後ろめたさみたいなものも、浮気相手の子供なら良いだろうっていう意識
わずかにあったりしたんかな? >>148
明はもともと滅びかけてたが秀吉の出兵で死期が多少早まったに過ぎない >>124
ああ且元逃げてきたんよな
しかし大義名分になるんかこの人 >>138
豊臣家は全国の大名を巻き込んで畿内で盛んに寺社の造営・改築を行っていたので
上方では大変な人気があった
今の京都はほぼ豊臣親子が作ったと言って過言ではないくらい
さらに自社造営の名目で集めた金を中抜きしまくって
数兆円とも言われる巨万の富を抱え込んで決戦のための軍資金としていた
少しでも隙を見せれば滅亡させられる危機感を非常に感じていて
無為に過ごして滅ぼされのではないのは確かだよ >>150
あれ、信なりの爺さんが自称し始めただけで、織田宗家の人達はあんな人達知らないって言ってんじゃなかったっけ >>154
寺作りで大坂方は金がなくなった説が通説だったが変わったんかー。これもう分かんねえな >>151
側室何人もいるのに淀だけポンポン2人産んだら「あ、察し・・・」ってなるだろ >>144
秀吉と三成を筆頭にしたブレイン集団が異次元レベルで優秀だったから
大軍の運用を円滑にできただけ
大坂の陣の頃には豊臣・徳川双方ともそのノウハウを持ったブレインが失われていて
何もかもがグッダグダだったからね >>151
そういう噂が立ったのも
豊臣家に対する不満の捌け口にされてたんだろうね >>151
宣教師が巷でも疑われてるって書き残してたような
うろ覚えなので勘違いだったらごめん
本郷さんは、名無しの陰陽師の子だろうと書いてたな
一人目は秀吉公認の種付けで、秀頼はそうじゃなかったとも ちょっと記憶が確かじゃないけど、何年か前に文献が見つかって
豊臣側が意図的に狙って国家安康ってして家康の2文字を分けたって説が出てなかったっけ
実は徳川側のいちゃもんじゃなかった的な 先手打って潜在的脅威を排除するのは大事やで
なんでアメップはあんなになるまで中国ほっといたんだって感じ 猿の晩年の迷走ぶりみると実は秀長の操り人形だった説が正解かもって思っちまうわ >>156
寺社も当時はまだ万余の軍勢を抱えていたし
朝廷への影響力も大きかった
孤立を深める豊臣家が味方に繋ぎ止めるために寺社に寄進しまくって
その造営が畿内に空前の好景気をもたらして
畿内では豊臣人気が高まったんだよ
だから大坂方にも10万近い軍勢が集まった
寺社の取り込みには失敗したけど あまり上方に気を使ってると
この時代の公方さまもお飾りかってナメられるからな
秀吉亡くなってから天下取る気満々なのは家康より三河武士達かもね >>161
鐘の銘までチェックしないだろうと
本気で家康に呪いをかけようとした可能性は確かにある 夏の陣の翌年に家康死んでるのか
人生ってなんだろな >>171
信長は復興より略奪や焼き討ちの方が圧倒的にえぐいんですけど 最大の懸念を始末してぽっくり
何でもないような事が幸せだったと思う >>148
自分の政権を潰すような無茶をしても相手を苦しめたらオーケーって?
自国民にも相手の国にも迷惑極まりない思想だな へえー今は国家安康はイチャモンじゃなく豊臣の挑発だったとの見方もあるんだな >>151
あれだけ秀吉に忠義尽くしてた福島正則ですら大坂の陣で秀頼から出兵頼まれても拒絶してたからなぁ
みんな秀頼は秀吉の子じゃないって思ってただろう 「豊臣家との闘いは、言わば互角の闘いだった。一歩遅れていれば、処刑場の羊になっていたのは吾々の方だ。先手を打っただけのこと、恥じる必要はない」 >>1
淀のせいだぞ
家康は秀頼と淀の徳川家への忠誠心を試したんだよ
それをバカ嫁がゼレンスキーみたいに突っぱねたから結果として滅びた 淀君のせいというより北政所
嫁同士の確執が豊臣家を滅ぼした >>187
そら托卵で豊臣家乗っ取られたからね
家康も秀頼が托卵の子じゃなければ違った扱いしてたはず >>187
それで北政所が悪いってのもおかしいと思うぜ
秀吉子飼いの武将なんかは北政所の累系が多いなんて事は淀やその周囲だってわかってた事なんだから
いくら跡継ぎの生母とはいえ、北政所を立てる所はちゃんと立てなきゃいけなかった 秀頼とかいう実子かも怪しい存在に跡を継がせる為に甥の秀次を殺したからな
秀吉が種無しだったというのは当時の人間の間でも公然の秘密だったのに >>179
僧侶クラスの知識人ならまずいことになるだろうなって予想はできたはずだからね ドラマや衣装に執拗に原爆イメージ挟み込む朝鮮人みたいにしらじらしいな。
セレクトに意図があるに決まってるだろ。 家康「イヤェァァァ 秀頼が『国家安康』とか言ってアチシの斬首を企ててる 豊臣滅ぼそ(棒読み)」 >>122
家康をそこそこ信用してたってことでもあるわな
結果的には5奉行側が豊臣側になったけど
おそらくこっちも家康も心の底からは信用してない アメリカがイラクに対して
ロシアがウクライナに対して
同じことをやっている >>97
そんなこと言ったら小田原北条はどうなるんだよ >>191
秀頼を跡継ぎにしたのは母親が織田信長の姪だったからというのがある
秀次の父は出自がはっきりしないこともあって例え姉の子といえど秀頼を優先せざるをえなかった 最大の不穏分子だからな、どんな手でもきっちり殺さないと 家康は牢人対策に、あまり熱心じゃなかったから
豊臣方に牢人が多数加わり、冬の陣じゃ10万人にも膨れ上がったんじゃ?
大坂の陣の前に、厄介払いを兼ねて、
牢人多数集め、蝦夷や台湾方面に送り込んで、屯田でもさせりゃ良かったのに 加藤清正の家や福島正則の家も最終的に滅ぼされてるし
なんとか今回生き延びても秀忠や家光の時に滅ぼされるんじゃない? 徹底恭順すれば石高は少ないが官位は高い大名として生き残ったかもな
将軍の娘婿で信長の血縁でもあるし >>204
ないなー
秀頼だけじゃなくて国松までしっかり根切りしてるし
豊臣の血を絶やす気まんまんでしょ 三成襲撃事件が起こってしまった時点で豊臣家の命運は決まってた
あそこで家康が天下取り決断してなきゃ豊臣家内部分裂して戦乱の世に逆戻りだよ 豊臣の血を存続させる価値がなかったのは
所詮百姓の成り上がりで
もとからの摂関家ではなかったからでしょ
公卿としても生き残れる術は残されていなかった 残ってる書状などから
秀頼は臣下として徳川に膝を屈して生き延びるより
決戦して天下を取り戻したいという意志があって
最期も従ってくれた諸将に死に場所を与えて
自らも城を枕に討死する覚悟を遺してる
秀頼のこの決断を愚かと言うのは簡単だけど
二十歳ちょっとの若武者の初陣で
天下を相手に渡り合った器量は褒められるべきだよ >>208
秀吉がもう少し長く生きてれば秀頼は名君として名を残してただろうな 織田家追い落としてノブカツとか平然と改易してた豊臣が
なんで国替えにすら応じず被害者ぶってんのかわからん
これ大阪人のステマだろ >>42
ほんこれ
なんでこれで被害者ぶるのか意味わからんは 安倍を侮辱したから証人喚問
日本人はそんなに進歩してないのがよくわかる >>207
家康が取り潰した家は殆どが成り上がりだからな
上杉なんて正面からタンカ切って弓引いたのに名家だから改易は逃れてる >>213
世の中因果応報だよ
徳川だって関ケ原のときに毛利の所領をごっそり減らしたから
幕末になって倒幕されたわけで 建前上は徳川家は豊臣家の臣下だったと思うんだけどなぁ
主家が徳川家を滅ぼそうとしている、というなら慎んで腹切るのが臣下としての本来のスジだろうと思う ブレイキングバッドが通るなら通るんじゃないの
すぐ死んだし >>212
起草者がわざと入れたのは認めてるからな
ただ呪詛の意図はなく、むしろ尊崇の証だってのが主張
当時の幕府以外の識者も呪詛意図は認めてない >>151
父親が種なしのせいで子供ができない場合、神社で儀式をやって他の男に妻を抱かせるという風習がある
秀吉と淀もそれをやったが一度目では身ごもらず、二度目を淀が無断でやったから秀吉が激怒した
という話を英雄たちの選択で昔やってたな >>163
歴史に限った話じゃないけど「定説は間違っていて実は○○だった!」系の論調って
研究で目立ちたいだけのやつが逆張りで言ってるだけのことが多いからあまり信用しちゃいけないと思うわ 天下を盗るのが目的でそれは手段なだけ
その字がなくとも天下を盗ることに変わりはない
893の因縁と一緒 >>49
500石程度で名家の血筋コレクションできるならコストも低いし… 秀頼の子である国松も庶子だから残す価値が無いと見るやあっさり斬首
家康が血筋にやたらこだわりがある人間だったのは
身内である結城秀康の扱い見ても明らかだわ 文句言われそうだけどわざわざ入れた説のほうが今じゃ強いんでしょ 結局歴史を勉強して得られる教訓とは、
道義的な正しさなんて、そこまで大した意味はないということだね。 ハンコのお辞儀押しに通じるものがある
ていうかこの頃からジャパニーズが今のジャパニーズ仕草を身につけていったのかな 中国でも皇帝の諱を書いたら不敬で刑罰を受けるってことがあるから
わざわざ対立してる相手の諱の文字をバラバラにして刻むのはなあ 嫌儲歴史スレは詳しい結構人おるよな
秀頼もアラブ馬で出陣した可能性があるとか始めて知ったわ >>239
出陣ではなく前線への督戦ね
鎧姿で黒いアラブ馬に乗って秀吉の金の瓢箪の馬印を従えていたが
180cmの大男なので良く目立ったという話
日本馬では潰れてしまうので巨大なアラブ馬を輸入した記録がある
過保護にされて肥満で馬にも乗れなかったと信じられていたのが嘘だったっぽい 頭一つ抜ける大男がでかい馬に乗ってるって漫画の前田慶次と松風かラオウと黒王じゃん
リアル前田慶次は小柄だったらしいけどw >>203
千姫に子供が生まれてれば
少なくとも血筋は間違いなく生き残ったんだけどねえ
姉である千姫を家光も大切にしたらしいし >>226
これ
日本史と日本の考古学は疑ってかかれ 古田織部「国家安泰で良いっしょ。秀吉殿下のテーマの楽だけ入れといて」
徳川家康「嫌ああああ楽嫌ああああ!!!コロスコロスコロス」 >>164
それは横の繋がりの「国」が弱くて
縦の組織の「会社」に負けた
著作権と特許無しで大儲けできる中国に投資されるのを、アメリカ国が止められなかった 鐘銘事件は今の感覚で考えちゃいかんわな
今の感覚だと、名前を分けて刻んだ位で文句言うなんてイチャモンだ、言いがかりだって思うのはそりゃ当然だけど
当時はそうやって人を呪う呪詛の方法があって、そういう呪いや祈祷をまじめに信じていた時代だって事を忘れてはいかん
江戸時代に入ってからだって、病気になったらまずおまじないや祈祷をするのが普通だったんだから
あの当時の微妙な立場の豊臣としては避けなきゃいけない事だし、避ける事は可能だったはずなんだよね
当時の(幕府側ではない)学者もこれは避けるべき事だったと言ってたりするし、相手は天下人なんだから最大限の配慮をするべきだった
この銘を選んだ人も家康への呪詛は否定したけど、君臣豊楽については豊臣の隠し字の意図があったって事は認めてるし
この件を家康が豊臣を潰す口実にしたのは確かだけど
豊臣側が自分の立場をわきまえておらず、あまりに脇が甘かったってのも確か 知障「イヤァァァァ!!フセインが大量破壊兵器の開発企ててるぅぅ!」
知障「イヤァァァァ!!アサドか毒ガス兵器の使用を企ててるぅぅ!」
結局いつの時代だって力さえあれば
開戦の大義名分なんて何でも許されるんですよね これ、家康の側近の知恵袋が見つけ出したんだよね鐘の銘。確か林羅山。 家康が存命の内に決着付けておきたかった
秀忠は政治家としては優秀だったけど戦いはポンコツだったし、悪評はもうじき退場する自分にってのもあったし
豊臣も空気読んで公家としてやってくとか逃げ道あったけど家康がくたばるの待てばワンチャンあるからと折れなかった 大真面目に呪いや祈祷をしてた時代の話なんだから、現代で言えば暗殺未遂の毒物見つかったレベルの話じゃねぇの 国家安泰とか煽ったのって、関ヶ原の戦いで天下の趨勢が決まった後だよね。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
慶長8年(1603年)家康征夷大将軍に任命され徳川幕府開く
慶長19年(1614年)大坂冬の陣
慶長20年(1615年)大坂夏の陣
負けたなら潔く従順にしとけば豊臣家残ってたろうに。 当時では大軍勢の兵站を確保するってのは極めて困難で
大坂方は籠城すれば逆兵糧攻めで勝機ありと考えていたらしい
実際に徳川方は兵糧が枯渇して結構ヤバいとこまで追い詰められてたらしいのが
発掘調査で馬を潰して食った跡が出てきたので分かってきてる
講和後に難癖つけられて滅ぼされたから結果として失敗だったけど
勝ち目がない戦を挑んだ愚か者ではないということ 秀吉子飼いの武将が家康に付いた時点でゲームオーバー。 >>10
だな
合法的なフランス領インドシナに進駐しただけで経済封鎖たからな 時は今 天が下知る 五月かな
光秀のこっち方があからさまなのにマジでなんでこん時誰も何も言わなかったんだよ 資金力はあったからね
冬の陣の10万人規模とその兵糧が籠城する巨郭大坂城を落とすことは、東軍のあの戦力では不可能だったよ
おそらく耐えきって日和ってる西国大名が反家康に靡くのを期待してたんだろう
誤算はカルバリン砲が天守まで届いて厭戦感情が指導層に出てしまったこと
こんなものは戦況にはなんの影響もないのに、未知の西洋の武器の前に15年の安穏を過ごした奴らにはキツすぎた
豊臣秀頼の戦の実力は、結局三流でしたと 夏の陣でも軍勢の数が10万だったら、豊臣方勝てただろ 昔は家康の言いがかりだとされてたけど、今は本当に呪詛だった説が有力 方広寺鐘銘事件は
・右僕射を家康を射るという明らかに無理筋な文句も付けてること
・呪詛だという鐘が破棄されていないこと
このことから銘文自体の適否とは別に
徳川方に開戦の口実をつくろうという意図があったことは別に否定されていない
ただし、鐘銘事件以前から半冷戦状態にあったのも事実 豊臣側にもこっちには難攻不落の大阪城があるんだから
簡単には家臣だった徳川なんぞには屈しないぞ!
そんな思いがあったのは確かだと思う
だから、徳川が出した大阪退去とかを飲んで大阪城って反徳川の象徴を手放してれば
徳川の一大名としてか、公家としてかはわからんが豊臣が生き残る可能性はあったはず >>266
徳川家の頭越しで関白就任任命で反幕府の神輿にされるのを恐れてたとは言われてるな。
禁中並公家諸法度作るぐらい朝廷(天皇家)と公家衆信用してないし。
京都に近い大阪城を明け渡せっていうのはそういうことなんだろう。 当時の大阪城は今のしょぼい観光用と違って大規模な要塞だったからな、自信過剰になるのも仕方ないこと 徳川の御用学者のプロパガンダで作られた
秀頼は凡庸で淀殿の操り人形だったというイメージで見ると実像は見えてこない
一次資料から形作られる秀頼像は
天下人の後継者としての自負が強く
徳川に簒奪された天下の返還を強く求め徳川に拒絶されると
淀殿や重臣の反対を押し切って挙兵した武断派
孤立無援でも長期の籠城で離反者を出さず
最期まで諸将が忠誠を誓い
共に討死にすることを望むくらいのカリスマがあった >>269
実際には落城の土壇場では離反者も沢山出たようだぜ
落城時に天守に火をかけたのは離反した豊臣方の奴だったって話もあるし お家存続のためなら劉禅みたいな奴の方がよかったな
かーちゃん江戸に送ります、大坂城への思い入れ、太閤の跡取りとしての誇り?ないです(野獣先輩風)
みたいな >>270
さすがに主将の多くが討死にした後では仕方ないでしょ
秀頼は既に死を覚悟していて
千姫に自らの菩提を弔うようにと自筆の念仏を託して徳川に返還してる
武士の死に際としては立派だと思うよ 計ったのは天海
そして天海の正体は秀吉に殺された明智光秀。
復讐するは我に有り >>274
それは微妙な所
最初から豊臣を滅ぼす気なら、後々に面倒事になるのはわかってる千姫の婚約の件は反故にしたり、輿入れをもっと先延ばしにもできたはず
千姫の秀頼への輿入れは1603年、家康が将軍になった後だし 秀頼は近江派の誰かのガキだし
尾張派のほとんどは形式的に秀頼を立てたとしても最終的には見捨ててるよな
近江は関西よりだから
尾張出身なら三河出身の徳川閥により親近感をもつのは当然 「令和」もピックアップする文字をばらしたもんだから見事に天災続き 秀頼の抹殺に関しては家康よりも秀忠の方が強硬だったと言われている
真田丸の戦いで大きな犠牲を出してしまったために
秀忠をはじめとした幕臣の間で
真田信繁らへの厳罰を求める声が大きく
引渡しを拒否する秀頼との間で妥協点が見いだせなくなってしまったんだと
秀頼は臣下を切り捨てて生き延びるより
共に討死にする道を選んでしまった 「国家安泰」とかで良かっただろ
わざとと言われても仕方ない >>268
今の徳川大阪城のほうが要塞としては上だったけどね
(外郭や多くの建物は破却されたけど) >>271
まさにそういうやつだった今川氏真は家を残したしな >>283
一応ツッコミ入れとくと
総構えで世界最大規模の城塞都市だった豊臣大坂城と比べると段違いに小さい >>285
周囲2キロ4方のそう構えってコンスタンティノープルより遥かに小さいけど?
それに徳川が作り変えた城も豊臣の総構もほぼ同じなんだけど?規模感 >>287
いや豊臣時代は2km四方であってるわ
同じ時代のウィーンと同じようなサイズ感
勿論ウィーンの方は遥かに近代的な城塞だけど
コンスタンティノープル(当時ならオスマンの首都)は20kmあった >>288
ウィーンような高い城壁の代わりに幅の広い水堀が強固な防御の役割を果たしてたんです
トーチカも作られていて
最近の研究では極めて強固な防御施設も整っていたのが分かってます 徳川大坂城なんて盛り土して高くなって威圧してただけ
城としての大きさは豊臣大坂城に遥かに及ばない 今日も書いとくが右大臣なんかもらわなければよかった。当時の摂政か関白の悪意を感じる 徳川大阪城が豊臣並なら幕末史が変わっていたであろう >>119
秀吉が信用してなかったのは徳川じゃなく上杉や佐竹、最上、伊達とかの東国や奥羽の大名だよな
それを知ってか知らずか石田三成が関ヶ原でぶち壊した >>294
その中で上杉は違うだろ
五大老に任命してるし >>49
元々今川は足利一門だし
秀吉だって公方から喜連川立てたでしょ
まして家康の松平家だって足利家人筋の新田氏裔を名乗って源氏長者に立ってる
武家の源氏裔原理を利用するなら
足利家筋を利用するのは常道
豊臣はかろうじて藤原氏裔を名乗れたが
やはり神別氏族であり源氏に建てない以上
今川の始末をなぞれるとは限らない >>295
その上杉は信用できるのか?
徳川と前田はわかるが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています