家康「イヤェァァァ!!秀頼が『国家安康』とか言ってアチシの斬首を企ててるぅぅ!豊臣滅ぼそ!」👈こんなの許されるんか? [387413547]
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これ考えたやつマジで頭クルクルスットンパーだろ
しょうめい‐じけん【鐘銘事件】
慶長一九年(一六一四)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。 大坂冬の陣のきっかけとなった。
https://kotobank.jp/word/%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6-79894#:~:text=%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%81%E3%81%84%E2%80%90%E3%81%98%E3%81%91%E3%82%93%E3%80%90%E9%90%98,%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82 >>239
出陣ではなく前線への督戦ね
鎧姿で黒いアラブ馬に乗って秀吉の金の瓢箪の馬印を従えていたが
180cmの大男なので良く目立ったという話
日本馬では潰れてしまうので巨大なアラブ馬を輸入した記録がある
過保護にされて肥満で馬にも乗れなかったと信じられていたのが嘘だったっぽい 頭一つ抜ける大男がでかい馬に乗ってるって漫画の前田慶次と松風かラオウと黒王じゃん
リアル前田慶次は小柄だったらしいけどw >>203
千姫に子供が生まれてれば
少なくとも血筋は間違いなく生き残ったんだけどねえ
姉である千姫を家光も大切にしたらしいし >>226
これ
日本史と日本の考古学は疑ってかかれ 古田織部「国家安泰で良いっしょ。秀吉殿下のテーマの楽だけ入れといて」
徳川家康「嫌ああああ楽嫌ああああ!!!コロスコロスコロス」 >>164
それは横の繋がりの「国」が弱くて
縦の組織の「会社」に負けた
著作権と特許無しで大儲けできる中国に投資されるのを、アメリカ国が止められなかった 鐘銘事件は今の感覚で考えちゃいかんわな
今の感覚だと、名前を分けて刻んだ位で文句言うなんてイチャモンだ、言いがかりだって思うのはそりゃ当然だけど
当時はそうやって人を呪う呪詛の方法があって、そういう呪いや祈祷をまじめに信じていた時代だって事を忘れてはいかん
江戸時代に入ってからだって、病気になったらまずおまじないや祈祷をするのが普通だったんだから
あの当時の微妙な立場の豊臣としては避けなきゃいけない事だし、避ける事は可能だったはずなんだよね
当時の(幕府側ではない)学者もこれは避けるべき事だったと言ってたりするし、相手は天下人なんだから最大限の配慮をするべきだった
この銘を選んだ人も家康への呪詛は否定したけど、君臣豊楽については豊臣の隠し字の意図があったって事は認めてるし
この件を家康が豊臣を潰す口実にしたのは確かだけど
豊臣側が自分の立場をわきまえておらず、あまりに脇が甘かったってのも確か 知障「イヤァァァァ!!フセインが大量破壊兵器の開発企ててるぅぅ!」
知障「イヤァァァァ!!アサドか毒ガス兵器の使用を企ててるぅぅ!」
結局いつの時代だって力さえあれば
開戦の大義名分なんて何でも許されるんですよね これ、家康の側近の知恵袋が見つけ出したんだよね鐘の銘。確か林羅山。 家康が存命の内に決着付けておきたかった
秀忠は政治家としては優秀だったけど戦いはポンコツだったし、悪評はもうじき退場する自分にってのもあったし
豊臣も空気読んで公家としてやってくとか逃げ道あったけど家康がくたばるの待てばワンチャンあるからと折れなかった 大真面目に呪いや祈祷をしてた時代の話なんだから、現代で言えば暗殺未遂の毒物見つかったレベルの話じゃねぇの 国家安泰とか煽ったのって、関ヶ原の戦いで天下の趨勢が決まった後だよね。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
慶長8年(1603年)家康征夷大将軍に任命され徳川幕府開く
慶長19年(1614年)大坂冬の陣
慶長20年(1615年)大坂夏の陣
負けたなら潔く従順にしとけば豊臣家残ってたろうに。 当時では大軍勢の兵站を確保するってのは極めて困難で
大坂方は籠城すれば逆兵糧攻めで勝機ありと考えていたらしい
実際に徳川方は兵糧が枯渇して結構ヤバいとこまで追い詰められてたらしいのが
発掘調査で馬を潰して食った跡が出てきたので分かってきてる
講和後に難癖つけられて滅ぼされたから結果として失敗だったけど
勝ち目がない戦を挑んだ愚か者ではないということ 秀吉子飼いの武将が家康に付いた時点でゲームオーバー。 >>10
だな
合法的なフランス領インドシナに進駐しただけで経済封鎖たからな 時は今 天が下知る 五月かな
光秀のこっち方があからさまなのにマジでなんでこん時誰も何も言わなかったんだよ 資金力はあったからね
冬の陣の10万人規模とその兵糧が籠城する巨郭大坂城を落とすことは、東軍のあの戦力では不可能だったよ
おそらく耐えきって日和ってる西国大名が反家康に靡くのを期待してたんだろう
誤算はカルバリン砲が天守まで届いて厭戦感情が指導層に出てしまったこと
こんなものは戦況にはなんの影響もないのに、未知の西洋の武器の前に15年の安穏を過ごした奴らにはキツすぎた
豊臣秀頼の戦の実力は、結局三流でしたと 夏の陣でも軍勢の数が10万だったら、豊臣方勝てただろ 昔は家康の言いがかりだとされてたけど、今は本当に呪詛だった説が有力 方広寺鐘銘事件は
・右僕射を家康を射るという明らかに無理筋な文句も付けてること
・呪詛だという鐘が破棄されていないこと
このことから銘文自体の適否とは別に
徳川方に開戦の口実をつくろうという意図があったことは別に否定されていない
ただし、鐘銘事件以前から半冷戦状態にあったのも事実 豊臣側にもこっちには難攻不落の大阪城があるんだから
簡単には家臣だった徳川なんぞには屈しないぞ!
そんな思いがあったのは確かだと思う
だから、徳川が出した大阪退去とかを飲んで大阪城って反徳川の象徴を手放してれば
徳川の一大名としてか、公家としてかはわからんが豊臣が生き残る可能性はあったはず >>266
徳川家の頭越しで関白就任任命で反幕府の神輿にされるのを恐れてたとは言われてるな。
禁中並公家諸法度作るぐらい朝廷(天皇家)と公家衆信用してないし。
京都に近い大阪城を明け渡せっていうのはそういうことなんだろう。 当時の大阪城は今のしょぼい観光用と違って大規模な要塞だったからな、自信過剰になるのも仕方ないこと 徳川の御用学者のプロパガンダで作られた
秀頼は凡庸で淀殿の操り人形だったというイメージで見ると実像は見えてこない
一次資料から形作られる秀頼像は
天下人の後継者としての自負が強く
徳川に簒奪された天下の返還を強く求め徳川に拒絶されると
淀殿や重臣の反対を押し切って挙兵した武断派
孤立無援でも長期の籠城で離反者を出さず
最期まで諸将が忠誠を誓い
共に討死にすることを望むくらいのカリスマがあった >>269
実際には落城の土壇場では離反者も沢山出たようだぜ
落城時に天守に火をかけたのは離反した豊臣方の奴だったって話もあるし お家存続のためなら劉禅みたいな奴の方がよかったな
かーちゃん江戸に送ります、大坂城への思い入れ、太閤の跡取りとしての誇り?ないです(野獣先輩風)
みたいな >>270
さすがに主将の多くが討死にした後では仕方ないでしょ
秀頼は既に死を覚悟していて
千姫に自らの菩提を弔うようにと自筆の念仏を託して徳川に返還してる
武士の死に際としては立派だと思うよ 計ったのは天海
そして天海の正体は秀吉に殺された明智光秀。
復讐するは我に有り >>274
それは微妙な所
最初から豊臣を滅ぼす気なら、後々に面倒事になるのはわかってる千姫の婚約の件は反故にしたり、輿入れをもっと先延ばしにもできたはず
千姫の秀頼への輿入れは1603年、家康が将軍になった後だし 秀頼は近江派の誰かのガキだし
尾張派のほとんどは形式的に秀頼を立てたとしても最終的には見捨ててるよな
近江は関西よりだから
尾張出身なら三河出身の徳川閥により親近感をもつのは当然 「令和」もピックアップする文字をばらしたもんだから見事に天災続き 秀頼の抹殺に関しては家康よりも秀忠の方が強硬だったと言われている
真田丸の戦いで大きな犠牲を出してしまったために
秀忠をはじめとした幕臣の間で
真田信繁らへの厳罰を求める声が大きく
引渡しを拒否する秀頼との間で妥協点が見いだせなくなってしまったんだと
秀頼は臣下を切り捨てて生き延びるより
共に討死にする道を選んでしまった 「国家安泰」とかで良かっただろ
わざとと言われても仕方ない >>268
今の徳川大阪城のほうが要塞としては上だったけどね
(外郭や多くの建物は破却されたけど) >>271
まさにそういうやつだった今川氏真は家を残したしな >>283
一応ツッコミ入れとくと
総構えで世界最大規模の城塞都市だった豊臣大坂城と比べると段違いに小さい >>285
周囲2キロ4方のそう構えってコンスタンティノープルより遥かに小さいけど?
それに徳川が作り変えた城も豊臣の総構もほぼ同じなんだけど?規模感 >>287
いや豊臣時代は2km四方であってるわ
同じ時代のウィーンと同じようなサイズ感
勿論ウィーンの方は遥かに近代的な城塞だけど
コンスタンティノープル(当時ならオスマンの首都)は20kmあった >>288
ウィーンような高い城壁の代わりに幅の広い水堀が強固な防御の役割を果たしてたんです
トーチカも作られていて
最近の研究では極めて強固な防御施設も整っていたのが分かってます 徳川大坂城なんて盛り土して高くなって威圧してただけ
城としての大きさは豊臣大坂城に遥かに及ばない 今日も書いとくが右大臣なんかもらわなければよかった。当時の摂政か関白の悪意を感じる 徳川大阪城が豊臣並なら幕末史が変わっていたであろう >>119
秀吉が信用してなかったのは徳川じゃなく上杉や佐竹、最上、伊達とかの東国や奥羽の大名だよな
それを知ってか知らずか石田三成が関ヶ原でぶち壊した >>294
その中で上杉は違うだろ
五大老に任命してるし >>49
元々今川は足利一門だし
秀吉だって公方から喜連川立てたでしょ
まして家康の松平家だって足利家人筋の新田氏裔を名乗って源氏長者に立ってる
武家の源氏裔原理を利用するなら
足利家筋を利用するのは常道
豊臣はかろうじて藤原氏裔を名乗れたが
やはり神別氏族であり源氏に建てない以上
今川の始末をなぞれるとは限らない >>295
その上杉は信用できるのか?
徳川と前田はわかるが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています