中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。

日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが、
その時、木の下に寝転んでいた男が突然飛び起きて信長に猛進してきた。
この男を捕らえて何事か問い詰めると、男が言うには
「私は平秀吉という者で、薩摩人の奴隷である」と。体は丈夫ですばしっこく、
その上に口先が達った。 信長はこれを面白がり、馬廻りの役に付け、
「木下」と名を与えた。信長のためによく働き、後に二十余州を奪い大将となった。
信長は罪を犯した参謀の阿奇支(安芸・毛利氏と明智光秀を混同?)を
秀吉に討たせるが、その信長自身が部下の明智に討たれてしまった。
変を聞いた秀吉は阿奇支を滅ぼした勢いで、取って返し明智を誅滅し、
名を響かせた。そして1586年(1585年?)、信長の3人の子を廃し、自らが関白となった。
その後、秀吉は諸将の兵を引き連れ明を攻めようとしたが、その時、
子供が死んで、兄弟もなかった(「自国を守らせる身内がいなかった」の意?)。
また、豊後の将(大友義統?)の妻を奪い妾とした。
諸将は秀吉の暴虐を怨み「この戦いの目的は明を攻めることではなく、
我々の力を削ぐ事に違いない」と言った。 そして諸将の心もバラバラで
まとまりがなかった。この様な事情で秀吉は自ら攻めて来ることはなかった。
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