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晩年の瀬戸内寂聴さんが「出家」に感謝した瞬間
出家13年後、姉にかけられた言葉で生まれた決断
つづけられた力
寂庵で毎月発行している『寂庵だより』と名づけられた新聞が今年四月初めに三百号を発行することになった。
始めたのは昭和六十二年(一九八七年)二月からだった。私の六十四歳の時であった。五十一歳の十一月、奥州平泉中尊寺で出家してから十三年経っていた。
得度十年の記念日に徳島から祝いに来てくれた姉は体調を崩していた。腸にガンが出来ていることに気づいていなかったのだ。
疲れたといって横になった姉がその姿勢のままで、
「十年よくもったね。お礼をしなければ」
とひとりごとのようにつぶやいた。姉の言葉の意味を考えている私の耳に、姉の声がまた聞こえた。
「門を開けて、仏さまをお詣りに来てくれる方々をお迎えする道場を建てたら……」
私はそれまで、出家は自分の人間を鍛え直し、自分の文学の背骨を強固にするために選んだ、つまり自分自身のためにしたと思っていたので、姉の言葉にショックを受けた。
出家した時、すべての物を捨て、寂庵を建てた借金が、ようやくきれいになくなったところだった。また裸になればいいんだと何かが私の背を突いた。
再び銀行で借金をして道場を建てた。その棟上げの時、病体を押して来てくれた姉は、道場が完成する前、直腸ガンで死亡していた。
私は道場の天井におさめた棟木に、この道場は姉瀬戸内艶の発願に依ると書きつけた。
思えば私が出家を思いたったことも、それが許されたことも、十年以上も、一度の迷いもなく、その道から外れなかったことも、すべて私の力ではなく、み仏の御加護と、無数の人々の愛と援助のたまものであった。
お礼をしなければといった姉のつぶやきは、それを私に教えてくれた仏のことばであった。
私は四十坪の道場を「サガノ・サンガ」と名付けた。サンスクリットのサンガは和合衆と訳されている。同じ志を持った同志という意味だろう。同志の教団もサンガと呼ぶ。
私の報恩の志で建てたサンガには予想以上の人々が全国から集ってくれるようになり、その人々の熱意にうながされ、サンガの行事が自然に定着した。
そして開門して一年九ヶ月今経った時、私はまた報恩の意味で新しいことを思いたった。
それが、サガノ・サンガから発行する「新聞」であった。全国の同志たちとの縁をより強固にするためもあったが、長い戦争を青春の時生きた私には、いざという時、自分の意志を発表する場を自分で持ちたいという強い願いもあった。
今、三百号を発送する時に当り、この新聞をつづけさせてくれた数えきれない人々の愛と、み仏の御加護に心から感謝を捧げている。 (二〇一二年三月 第三百号)
法臘四十歳
十一月は私にとっては貴重な月である。私の得度記念月に当る。出家するとその年から法臘(ほうろう)一歳となる。つまり私は戸籍年齢九十一歳だが、五十一歳の十一月に出家しているからその時法臘一歳になり、今は法臘四十歳というわけで、五十一歳若返っている。人が口を揃えて私のことを若いというわけだ。
二十歳の時、断食して、その時も二十歳若返ったと思ったから、私が他人より若いのは当り前だろう。
四十年の歳月に、天台寺に通いつづけ、復興につとめたり、敦賀女子短期大学の学長になって四年通ったり、徳島で文学塾を開いて毎月通ったり、四十人も七十人もつれてインドの聖地めぐりをしたり、その間もペンを一日も離さなかったり、考えられないほど、体を酷使したので、突然、血圧が二百にもなって、倒れてしまった。出家した翌年、クモ膜下出血で死に損なった時と、これで二度の重病である。