西軍の総大将を石田三成と思ってる人って3割ぐらいいそう⚔ [805238285]
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総大将だったからこそ切腹・首切りさせられたんだろ?
影武者徳川家康っていうジャンプの漫画読んでみろ いや普通に毛利だろwww
毛利家が総大将なのに親戚の小早川家が裏切ったのが衝撃的だったんだから
アホか 田中富広会長の上に韓国人の総会長がいて安倍に指示出してたのと同じ構図か 現場監督みたいなもんだよ。
社長は城でチュウシーだし。 JAP仕草だよな
総理大臣が責任取らずに官僚に腹切らせたり 総大将毛利やる気なし
毛利と繋がりの深い吉川は愛妻弁当食べるから兵を動かさず
毛利と繋がりの深い小早川は裏切った
だっけ なんで注視だけしてて動かない人に大将まかせちゃったの >>24
嫌われてたから石田が総大将だと誰も集まらない 総大将の毛利がやる気ないどころか徳川に内通というギャグ
しかも約束を反故にされてるのがこれまたギャグ 石田でもいうほど誰も集まらなくはないが、武断派が発狂しやすいので、毛利もいるぞとアピールするとグムムとなる
まあそこを家康に見抜かれて骨抜きにされたけどね 毛利両川とは何だったのか
本家含めて動きがバラバラじゃねーか
元就があと30年長く生きていれば… 輝元なんか参戦すらしてないだろ。
総大将は三成だよ。 どの創作物も石田の存在感が凄いのは一体何なの?
やはり実質あいつが大将だったのか
それとも後の講談やらなんやらの脚色なのか? >>36
積極的に参加してない
保険として分家を徳川方にやった
これで領地大削減されたんだからアホだよな 二十数万石の三成じゃ格落ちだもんな
小早川や宇喜多と釣り合いも取れないし
一応毛利両川全て参加してる毛利氏が大将格なのは当然
石田は前線指揮官 >>40
広家に野心があったら輝元どうなっていたか 徳川方についていい目にあった外様いる?
約束反故にされてるのばっかじゃない 室町以降の武家同士の戦い興味なさすぎて大変だったな こんな戦い起こさなければ豊臣は滅ぼされなかったというのはまぁ嘘だな
軍権を家康に握られていたから そもそもなんで毛利がろくにたたかわなかったのか分からなすぎる
あの行為、小早川の裏切り以上に悪質だろ
それで減封もされてるし 布陣だけで見れば
徳川
対
毛利
上杉
宇喜多
五奉行の形
これで西軍負けるんだからな 実際前哨戦含めればそれくらいだろ
伏見城の戦いとか >>47
仙石権兵衛と藤堂高虎と黒田はそんな酷い目にあわされてないんちゃう? 毛利って歴史上何も成し遂げてないのに何故か扱いいいよな
公爵だし 島津は伏見城に「東軍として」参戦したが鳥居元忠に入城を断られて仕方なく西軍についた
島津もほんとはやる気なし /⌒ヽ
く/・゜ ⌒ヽ
| 3 (∪ ̄]
く、・。 (∩ ̄]
石田三成さんの評価
昔にくらべたらあがってるきは
するね。戦はだめだけど 毛利兄弟って仲が悪いんだな
島津は仲が良かったけど >>61
島津にもっと兵力あれば東軍に入ってたパターンになるんじゃね >>77
親父の分と合わせた真田一族って考えた場合はどうだろ? 関ヶ原って皇帝秀頼を支える十常侍筆頭の石田三成の西軍と
丞相徳川合従軍の東軍の戦いって認識であってるよな? >>72
関ヶ原前に鳥居ヤッちゃったから無理じゃねえかな 毛利家だけど総大将なのに裏切り者って安倍そのものだし
遥か昔からホント長州ってゴミそのものだ 西軍が勝ったところで毛利が徳川の代わりになってただけの気がするな これはあるあるだよな
なぜか石田三成だと誤解させられる >>68
実戦では様子見
島津勢は近くでガチ戦闘してた宇喜多勢が小早川の寝返りで総崩れして島津勢に「助けて~」って雪崩れ込んできてから退き口で本気出した >>51
元々毛利輝元は決断力がない
信長が死んだ後すぐに秀吉討ってたらその勢いで畿内に乗り込み
ほぼ確実に天下取れた 吉川広家は勝手に徳川と交渉したことになってるが、吉川家の毛利家への誠実さ考えると勝手に交渉したとは考えにくいな
やはり毛利本家から徳川と交渉するように指示出てたかもね 嘘だ!戦国無双だと三成倒したらゲームクリアだったぞ 毛利元就←有能
毛利隆元←普通の人、長生きしたら違ったかも
吉川元春←有能
小早川隆景←有能
毛利輝元←
吉川広家←有能
小早川秀秋←
の認識 戦国無双だったら石田三成vs徳川家康だったけど?
服部半蔵の計略で、裏切り者が出て、西軍総崩れになったんよな。 >>92
秀吉と勝手に和睦したのが小早川だから
吉川が徳川と通じててもおかしくはないんだよな 大谷くんからお前総大将なんでダメだからよって言われたでしょ >>92
関ヶ原の後に吉川は大名になれなかった本家の
毛利の推薦がなかったから結構毛利から
恨まれてる >>87
西軍が勝っても毛利が宰相になる事ないし
結局は秀頼の下の石田とかの官僚勢力が大きくなるだけでは 井伊直弼、石田三成、小早川秀秋、クズは滋賀ってイメージ 毛利家はアホだけど
この自爆がなければ明治維新もなかったしな
結果オーライオーライ >>91
そもそも高松城を救出する余裕すらないんだよ毛利には
長年の戦で疲弊してて追撃する余力すらない >>98
毛利本家は吉川に責任擦り付けたんじゃないかなっていうのが僕の説
それでも260年も毛利家のために行動取り続けて最後岩国藩になった吉川家はかっこ良いと思う。 毛利はやる気が無いから総大将にされたイメージあるわ 秀吉と仲良しだった前田利家の息子の前田利長は
参戦しないというファインプレーで負け戦を回避してるんだよな 歴史の授業ではどう教えてるんだっけ
毛利なんて名前は出てこなかったと記憶してるんだけど >>106
関ヶ原後、お母ちゃんのまつを家康に人質出す出さないで一戦交える寸前まで緊張したんだっけ 両軍とも名目上の総大将は秀頼だし
石田、毛利、宇喜多……西軍の首謀者が誰であろうと、
家康が関ヶ原を契機に決定的に実権を握ったって核心は変わらんから
教科書的には変化はないはず 武田が滅びないで五大老入りしてれば
かなり歴史変わった気がするな
そうなるとそもそも本能寺がって話になるが 毛利なのか
そこそこ歴史詳しいけど石田三成と思ってたわ
そもそも漫画でもドラマでも石田三成で描かれるし
けど毛利って意外だよな
秀吉と戦争してたろ
むしろ親友だった前田利家のがしっくりくるけど >>115
詳しくないから
自分のこと詳しいとおもってたのでは? >>116
詳しいというかそこそこ知ってるってこと
まあ知識は漫画とかで得たやつだけど >>115
利家は死んでる
>>114
無かった
明治時代、当時の参謀本部がそう呼び始めた
「石田三成・毛利輝元連合軍」と「徳川家康主導軍」という区分が適当であるが、「東軍」「西軍」という呼称が広く世の中に浸透しておりそれに従わざるを得ないというのが実情 >>100
三成は悪い奴ではない
ただ嫌われ者ってだけ >>115
文人官僚三成軍と武人宰相徳川軍
毛利は秀吉政権樹立の土台だったけど
小早川と吉川の両川派閥で割れて三本の矢どころじゃなくなるというのが表面化するのが関ヶ原
前田は北政所と一緒に政局からは引いてく 毛利や宇喜多も打ち首にするべきなのに秘書クラスの石田に全責任追わせるのがジャップ
ヒロヒトに全責任追わせて縛首にしなかったのと同じだな >>122
宇喜多は前田と島津の嘆願で死罪免れた
前田は利家の娘(秀吉の養女)を秀家に嫁に出してるし、島津は関ヶ原キッカケで秀家と仲良くなった上に西軍敗北後秀家匿ってるし
運がいいんだよ >>124
嘆願なんてみんなされてるし運じゃないだろ
大物議員は責任取らずに秘書が自殺してるのと同じだわ
ヒロヒトは吊られずに何故か東条なんかが全部かぶる
古くから上級同士でかばい合う卑怯卑屈なジャップ土人仕草 >>125
三成は秘書ではない
発起人や 西軍のコーディネーター的な人
毛利も後から参加やし 中心の三成が打首は当然
毛利は戦ってないしね
宇喜多は戦ったけどまあ流罪なら妥当じゃないかな 軍記物や後世に再編成された資料を抜きにして
当時の史料からわかる実際の関ヶ原はこんなかんじだからな
開戦前
https://i.imgur.com/y9C0o6y.jpg
開戦と同時に突出していた大谷へ小早川らが襲いかかる。連動して東軍も挟撃し大谷瞬殺
https://i.imgur.com/gYmZzpF.jpg
西軍本隊と東軍諸大名が激突。大谷を撃破した徳川、小早川らも加わり、西軍はまもなく壊滅。島津撤退。
https://i.imgur.com/76yFCKy.jpg
https://i.imgur.com/bH5DIZP.jpg
https://i.imgur.com/TqqiXZV.jpg
午前中には全ての戦いが終わる。 >>125
嘆願みんなされてて何故か秀家が死罪免れたんだから運だろ
あんなに家康の手を煩わせて逃げまくった義弘も義久のお陰で不問にされて島津領地安堵されたのも運だわ
その時代の情勢、人間関係が命を左右したのは正に運
それと、関ヶ原の話だから
議員だのヒロヒトだのの話ししたいなら俺に絡まないでチョーダイ
ジャップなんて言葉使ってる時点で日本人じゃないんでしょ >>128
まあ 前田の嘆願を無視できないから宇喜多は流罪
井伊直政や福島の嘆願を無視できないから島津は許す
まだ独裁体制が確立できてない弱みはあるわな
それに島津が初め東軍行きたいってのは当時から事実認定されてたし >>127
そもそものあの布陣図自体が後世の想像によるものなんだっけ? 関ヶ原西軍に
薩摩長州がいた
明治維新で仕返し成功 後から見たら島津と毛利を取り潰せなかったのが家康最後の失態だな >>134
その為の姫路城と名古屋城なのに
幕末はアッサリ官軍を通過させてるという 毛利とか島津とか関ヶ原の時はともかく
家光の時代までに潰されても不思議じゃなかったのによく存続したよ >>119
有識者
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 実質石田三成と徳川家康の戦いだからなんだけど歴史知らないか?
関ヶ原まで至った流れ把握してる? 実質主導してたのは石田三成だけど20万石そこそこの中堅大名が号令したところで誰も集まらない >>120
確かに
朝鮮侵攻で諸将をあごで使って恨み買ったのも
そういう役割が故のことだもんなぁ
そう考えると秀吉のせいだわ こういうやつらってまず
なぜ西軍が石田三成で東軍が徳川家康と言われているのか
そこに疑問を持って調べようともしないんだよな >>145
せっかく関ヶ原最高クラスの功労者だったのに
未練がましく豊臣の支援に動いたり兵糧流したりだから
徳川方から見れば取り潰されても仕方ないと思うわ ケンモメンなら石田三成の逆転裁判みたいなゲームで学んでるからそのような間違いは起こさない
なおラストはヒロインのくのいちと落ち延びる 毛利家改易しなかったのが家康最大の罪じゃね?
関ヶ原後にきちんと潰してれば長州も安倍も存在しなかった >>155
毛利は潰しても分家の吉川はいるしそう変わらんのではないだろうか 家康が自分の威光をアピールする為に
「凄い合戦で勝利して天下人になりました!」
ってことにしてるけど
実は関ヶ原って小競り合いレベルの争いでしかなかったのかもな >>158
死者数千は出てるし これは少ない数字じゃない
だからそれはないんじゃないかな >>158
どちらかと言うと誤魔化してるのは
所謂東軍西軍の勝いは徳川不参加の岐阜城陥落で情勢を決していて
関ヶ原が内通や不信感だらけだったのは石田の不人気や徳川の寝業じゃなくその結果
勝敗は戦う前から明らかであっという間に終わったってことだろう >>157
徳川幕府に恨み持ってる奴とシンパシー感じてる奴じゃ全く違うし
お前の指摘は検討外れ 毛利一族は暗黒JK一人がノリノリで話を進めただけだから
関ヶ原で頑張ってたのも暗黒JK一人、処刑も暗黒JKだけ >>162
吉川家の養子の子孫が大野毛利家で幕末に活躍したの知らんのか >>159
賤ヶ岳で7本槍の次に武功挙げたんだが? >>145
ちゃんと法にのっとって裁いただけ
昔のような縁故忖度の時代が終わってる事に気づかなかった上に
頼った相手が既に幕府内でハブにされてた本田正純だったのも運のつき >>166
あれ幕府の嫌がらせや陰謀とかじゃなく普通に福島が舐めた態度取りまくりだったらしいからな >>4
なつかしい
爪噛まなかったから暗殺されたんだっけ >>5
当時の市民は総大将は宇喜多で
秀吉の弔い合戦と思ってたから >>129
朝鮮出兵の時に嫌われ者役一手に引き受けたのが後々祟ったよな >>1
東軍西軍ていつのこと?
壬申の乱も応仁の乱も戊辰戦争も東軍と西軍いたんだけど?
まさか関ヶ原だけで知識止まってる低学歴? >>172
有識者
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 毛利・吉川・小早川ってめっちゃ秀吉に可愛がられたじゃん
特に小早川
こいつらが主体的に豊臣裏切るのスゲーよな
自民しぐさはこの頃からはじまったか? 実際毛利輝元出陣してたら吉川も動かざるを得なかっただろうから楽勝だったろうに結果大減封されるしバカだよな
そもそも前田上杉と大老どんどん家康が潰しに行ってるのに
徳川の次の毛利が無傷で済むと思ってるのがお花畑過ぎるわ いや普通に石田三成だから
ちゃんと歴史の勉強したほうがいいんじゃない? 毛利は知恵遅れの安倍仕草だから
健常者視点でこうすればよかったとか言うだけ無駄なんだよ
長州は戦国時代から知恵遅れだったとそう解釈する以外ない >>47
まあ浅野、山内、仙石、黒田、細川、藤堂は勝ち組だろう、
福島、加藤、小早川、堀尾、最上らは自滅面もあるが
運命と思うしかない、
西軍側でもぬるぬると生き残ったり復活した
佐竹、立花、そして島津ときたら
>>131
戦国時代の主要な合戦の殆どは桶狭間や長篠らも含めて
明治陸軍が一通りの調査はやってるんだがな、
だから今更新説が~言うならそれなりの史料は
明示して欲しいところ >>4
https://i.imgur.com/VC3Q3Cs.jpg
海道一の弓取りって今川義元の事だよな
この漫画のせいで間違って覚えちまっただろうが >>174
小早川は元々福島や黒田と仲が良い武断派の一人
朝鮮の役で功をあげたはずが秀吉に処分されかけたんで
軍監だった石田には恨みがあり取りなしてくれた徳川に恩があった
西軍にいたのもたまたま領地が九州で大坂にいたって成り行きだけで
戦前から東軍と連絡を取り合い
関ヶ原の前日に味方を追い払って松尾山を占領し
戦が始まったらすぐに大谷軍を攻めて壊滅させるって
やりたい放題だった >>136
連合国家の辛いところだな
目障りな一国を潰そうとすればその他の離反を招いて大反乱が起きかねない 上杉もよく改易にならなかったな
主力なのに減封ですんである意味勝ち組 >>185
島津や毛利を単品で潰すのは可能でも
徳川も時間と兵力を消耗するし残党や血縁に恨みを買う
家康がそちらを選んでれば豊臣を断絶まで持っていけなかった可能性が高いからな >>186
直江状が引き金と考えれば滅ぼされてもおかしくなかったな 幼馴染みの鳥居ぶっ殺されてる割りには毛利もそれほど改易とか食らわんかったよな >>188
>>191
でも、家康が勝った相手って雑魚しかおらんよなぁ
政略は凄いけど戦略戦術が凄いとは全く思えん >>192
政略が上手けりゃ戦略戦術なんて要らんのよ
戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なりと孫子も言ってる >>184
なんで?毛利輝元とか家康から誓紙も取らずにノコノコ大阪城から退出して
取り潰されかけてんだから知恵遅れそのものだろ
こんなガイジムーブは長州しかできないよ >>193
それはええねん、そこはすごいって言うのは
でも海道1の弓取りとは違うと思うって なんで三成だけ斬首なんだよ😡
輝元と景勝の首も獲らないのはおかしいだろ😡😡😡 >>197
輝元を処刑→毛利三川が黙ってない
景勝を処刑→直江筆頭に会津120万石が黙ってない
天下を掌握する途上で見せしめに必要な処刑は恨みつらみ集めてた石田三成程度しか出来なかったというのが本当の所だろうな >>194
別に元就が有能とは言わないよ
でも有能の極みの元就の血も長州に流れてるだろw いや輝元は相当なお馬鹿さんだろ?
総大将なのに責任免れるなんて思ってる時点でアホ 小早川に便乗して寝返った奴等は
脇坂を除いて改易されたんだよな。 小早川は最初から東軍だったから裏切りなどなかったやろ
他四将はただの裏切り者だけどな 上杉って最上と戦ってる暇あったら徳川軍を背後から追撃しろよ
石田側と取り決めなかったのか? >>207
先に各個撃破しないでそこ攻めると
結城秀康と伊達&最上の挟み撃ちやで
無理ゲーや >>195
全盛期秀吉と戦して滅亡しなかったのはスゴくね? 輝元が無能だから長州がガイジとかどういう理屈なんだ
無能の代名詞の今川氏真がいたから静岡はガイジになるんだろうか
まあそこまで無能じゃない説もあるが 本来なら大坂城に留守居として秀元入れて自分が関ケ原に出張るのが筋なんだけどな
家康だってそうしてる なんか輝元が悪く言われてるが毛利として最大の領土は領有してるからな
そりゃ所領は激減したがそれは上杉とかも同じだし 蒲生氏郷が生きていたらなぁ
あと前田利家、秀長もなら万全 >>213
利家、秀長生きてたら家康が政権の長になれてないから
関ヶ原自体起こってねーだろ 関ケ原の時点で宗教勢力がどっち側についてたのか気になる 当時の小早川家は隆景時代の家臣は引き払っていて
家老の稲葉正成、平岡頼勝は秀秋が連れてきた家臣
小早川家が毛利本家と連携してるなら
万の兵率いて上杉討伐に参加したりはしない
戦後の論功行賞も毛利家と小早川家では全く別物として行われている
もう小早川家は毛利家とは関係ない家になってたと考えた方が自然 織田信長も明智光秀も石田三成もみんな滋賀県民なんだっけ? 諸将を集めて軍団を仕立て上げることに関して三成の右に出るものはいない。秀吉の威光も既に無く本人は嫌われ者だからすぐに瓦解したけど。 輝元は大坂城に入城後、諸将から西軍の総大将に推挙され、盟主として軍勢の指揮を執っていた。
だが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった。
輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、
また離反者の情報を懸命に収集した。
西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている。
輝元は小早川秀秋が東軍に内通しているという報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった。
西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った。
そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直政が広家や福原広俊に対し、
「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している。
9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した。
南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ傍観するほかなく、東軍と一戦も交えずに大坂に撤退した。
西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。
輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。
一方、家康は輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した。
輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている。
9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している。
そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、
自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った。その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。
要するに大将の器が違い過ぎたんですわ >>192
北条
武田
豊臣
とやり合って領土拡大してたんだが
本能寺の変の時はさりげなく甲州一国切り取ってるし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています