西軍の総大将を石田三成と思ってる人って3割ぐらいいそう⚔ [805238285]
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>>186
直江状が引き金と考えれば滅ぼされてもおかしくなかったな 幼馴染みの鳥居ぶっ殺されてる割りには毛利もそれほど改易とか食らわんかったよな >>188
>>191
でも、家康が勝った相手って雑魚しかおらんよなぁ
政略は凄いけど戦略戦術が凄いとは全く思えん >>192
政略が上手けりゃ戦略戦術なんて要らんのよ
戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なりと孫子も言ってる >>184
なんで?毛利輝元とか家康から誓紙も取らずにノコノコ大阪城から退出して
取り潰されかけてんだから知恵遅れそのものだろ
こんなガイジムーブは長州しかできないよ >>193
それはええねん、そこはすごいって言うのは
でも海道1の弓取りとは違うと思うって なんで三成だけ斬首なんだよ😡
輝元と景勝の首も獲らないのはおかしいだろ😡😡😡 >>197
輝元を処刑→毛利三川が黙ってない
景勝を処刑→直江筆頭に会津120万石が黙ってない
天下を掌握する途上で見せしめに必要な処刑は恨みつらみ集めてた石田三成程度しか出来なかったというのが本当の所だろうな >>194
別に元就が有能とは言わないよ
でも有能の極みの元就の血も長州に流れてるだろw いや輝元は相当なお馬鹿さんだろ?
総大将なのに責任免れるなんて思ってる時点でアホ 小早川に便乗して寝返った奴等は
脇坂を除いて改易されたんだよな。 小早川は最初から東軍だったから裏切りなどなかったやろ
他四将はただの裏切り者だけどな 上杉って最上と戦ってる暇あったら徳川軍を背後から追撃しろよ
石田側と取り決めなかったのか? >>207
先に各個撃破しないでそこ攻めると
結城秀康と伊達&最上の挟み撃ちやで
無理ゲーや >>195
全盛期秀吉と戦して滅亡しなかったのはスゴくね? 輝元が無能だから長州がガイジとかどういう理屈なんだ
無能の代名詞の今川氏真がいたから静岡はガイジになるんだろうか
まあそこまで無能じゃない説もあるが 本来なら大坂城に留守居として秀元入れて自分が関ケ原に出張るのが筋なんだけどな
家康だってそうしてる なんか輝元が悪く言われてるが毛利として最大の領土は領有してるからな
そりゃ所領は激減したがそれは上杉とかも同じだし 蒲生氏郷が生きていたらなぁ
あと前田利家、秀長もなら万全 >>213
利家、秀長生きてたら家康が政権の長になれてないから
関ヶ原自体起こってねーだろ 関ケ原の時点で宗教勢力がどっち側についてたのか気になる 当時の小早川家は隆景時代の家臣は引き払っていて
家老の稲葉正成、平岡頼勝は秀秋が連れてきた家臣
小早川家が毛利本家と連携してるなら
万の兵率いて上杉討伐に参加したりはしない
戦後の論功行賞も毛利家と小早川家では全く別物として行われている
もう小早川家は毛利家とは関係ない家になってたと考えた方が自然 織田信長も明智光秀も石田三成もみんな滋賀県民なんだっけ? 諸将を集めて軍団を仕立て上げることに関して三成の右に出るものはいない。秀吉の威光も既に無く本人は嫌われ者だからすぐに瓦解したけど。 輝元は大坂城に入城後、諸将から西軍の総大将に推挙され、盟主として軍勢の指揮を執っていた。
だが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった。
輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、
また離反者の情報を懸命に収集した。
西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている。
輝元は小早川秀秋が東軍に内通しているという報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった。
西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った。
そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直政が広家や福原広俊に対し、
「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している。
9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した。
南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ傍観するほかなく、東軍と一戦も交えずに大坂に撤退した。
西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。
輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。
一方、家康は輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した。
輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている。
9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している。
そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、
自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った。その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。
要するに大将の器が違い過ぎたんですわ >>192
北条
武田
豊臣
とやり合って領土拡大してたんだが
本能寺の変の時はさりげなく甲州一国切り取ってるし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています