意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳 戦国武将のイメージは現代とは大きく異なる
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朝鮮王朝の宰相である柳成龍が執筆した文禄・慶長の役の記録『懲毖録』が、日本でも元禄8(1695)年に刊行された。福岡藩黒田家に仕える儒学者・貝原益軒が、この和刻本に序文を寄せている。
貝原益軒は次のように論じる。戦争には義兵・応兵・貪兵・驕兵・忿兵の5つがある。仁徳ある為政者は義兵(正義の戦争)と応兵(自衛戦争)のみ行う。国家が戦争を好めば必ず滅び、天下が戦争を忘れれば必ず危うい。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は貪欲・驕慢・憤怒に基づく貪兵・驕兵・忿兵であり、大義名分のある戦争ではないし、やむをえない自衛戦争でもない。正当な理由なく戦争を起こすことは天道の憎むところであり、豊臣家が滅亡したのは自業自得である、と。武力行使を嫌うのは儒教的思考である。また、ここにも天道思想の影響が看取される。
江戸時代の支配的な思想である儒教に照らせば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は一片の正当性もない暴挙である。戦後歴史学における「朝鮮侵略」批判と相通じる評価と言えよう。
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けれども、朝鮮出兵を批判する声は、もっぱら体制擁護者たる儒学者から挙がるにとどまった。民間ではむしろ、朝鮮出兵を賞賛する意見が主流だった。
軍学者の山鹿素行が記した歴史書『武家事紀』(1673年)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵は秀吉の逝去により挫折したものの、日本の武勇を外国に知らしめたという点で神功皇后以来の壮挙であると説く。
そして、日本の諸将が不和であったために敵の策謀に落ちたが、もし団結していれば、朝鮮国どころか明国をも滅ぼしていただろうと論じている(『武家事紀』巻第一四)。
こうした主張は、北方ツングース系の狩猟民族である女真族が建てた清国が、1644年に巨大な明帝国を滅ぼした歴史的事実を背景にしていたと思われる(当時の清の人口は明の1%にも満たなかったと言われる)。
民間レベルでは負け戦という認識は希薄
また『絵本太閤記』の六編・七編は朝鮮出兵を叙述しているが、七編冒頭の「附言」で貝原益軒に反論している。豊臣秀吉は卑賤から身を起こして天下を取った英傑であり、その大志は凡人の考えが及ぶところではない。昨今はつまらぬ人間が朝鮮出兵を貪兵だの驕兵だのと誹謗している。だが、「筆下に章を積む腐儒燕雀の心を以ていかでか傑出英雄鵠鴻の大志を計り知らんや」というのである。
この一節は『史記』の「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(小人物に大人物の志は理解できない)」を踏まえたものである。文筆で空理空論をもてあそぶ腐れ儒者には、英雄の偉業は理解できない、と貝原益軒を批判しているのである。なお、『絵本太閤記』は出兵の動機の1つとして、「人間の一生は短い。日本の統治のみに時間を費やすのは英雄の志ではない。日本の武威を外国に見せつけてやろう」と豊臣秀吉に語らせている。
現代人から見ると、文禄・慶長の役という負け戦を起こした豊臣秀吉を、なぜそこまで賛美するのか、いささか奇異に思える。だが、民間レベルでは文禄・慶長の役が負け戦という認識は希薄だったように感じられる。
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江戸時代には多くの朝鮮征伐記もの(朝鮮軍記物)が執筆されたが、それらは基本的に、日本軍の局地的戦闘での勝利をクローズアップし、戦争全体における敗北には積極的に言及しなかった。
一例を挙げると、軍学者の宇佐美定祐が著した『朝鮮征伐記』(1662年)は、著者自身が述べているように、「秀吉公の奇計・智謀」を顕彰することを目的としていた。こうした朝鮮征伐記ものの影響を受けた『絵本太閤記』も、加藤清正をはじめとする日本軍の奮戦を特筆する。
これらの書物を参考にした講談・浄瑠璃・歌舞伎も同様である。近松門左衛門の浄瑠璃『本朝三国志』(1719年初演)に至っては、加藤正清(加藤清正)が遼東大王(朝鮮国王)を生け捕り、大王が土下座して命乞いをするなど、歴史的事実と懸け離れた場面を創作している(厳密に言うと「男神功皇后」という劇中劇での場面)。
こうした芸能に接した江戸時代の庶民の間では、文禄・慶長の役が負け戦だったという認識は薄かった。そのことが、朝鮮出兵を肯定する意識、さらには秀吉人気につながったと考えられる。