近藤医師を直接知る人々はみな口をそろえて「昔は優秀だった」と言う。慶應義塾中等部、慶應義塾高校、同大学医学部を経て最短コースで慶應病院放射線科に就職し、米国医師免許も取得している。米国留学を経て卒業後10年で講師に昇進しており、同病院のような歴史ある名門医大としてはスピード出世であり、「いずれは教授」の呼び声も高かったようだ。

私生活においては、医大同期の女性医師と結婚しており、「男尊女卑の感覚が一切なく、完全にイーブン。子育ても半分やって当たり前」という1970年代の男性医師としては稀有な意識の持ち主だったと語る関係者もいる。

名門医大のエリートコースを歩み将来を嘱望されていたはずの近藤医師が、手術や抗がん剤のような標準的な医療から離れ、がん放置療法に転向したきっかけは何なのか。

1980年代、米国留学から帰国した近藤医師は「乳がんの乳房温存療法」の普及に熱心に取り組んだ。当時の乳がん治療は、外科手術によって乳房全体を切除する方法が主流だった。また、当時の外科医局はテレビドラマ「白い巨塔」のような教授が絶対君主として支配する封建的組織であった。「外科」「内科」などの診療科は「メジャー科」と総称されて院内でのヒエラルキーやプライドも高い一方、「麻酔科」「放射線科」のような地味な診療科は「マイナー科」として下に見られがちであり、慶應大のような伝統校では特に顕著だった。パワハラの概念はなく、外科医が手術中に気に入らない研修医を蹴る行為は、「指導」としてまかり通っていた。

そういう時代背景の中、マイナー科である放射線科の若手医師だった近藤医師が、米国での知見を基に、メジャー中のメジャー科である外科医の治療方針に異議を唱えることは、大学病院という封建的な組織の中で激しい反感やバッシングを招いたことは想像に難くない。

1988年、近藤医師は「乳ガンは切らずに治る 治癒率は同じなのに、勝手に乳房を切り取るのは、外科医の犯罪行為ではないか」という内容の記事を月刊『文藝春秋』誌に寄稿した。1990年には『乳ガン治療・あなたの選択』(三省堂)という、標準医療に沿った一般人向け著書を出版しているが、さほど売れなかったようだ。

近藤医師とがん放置療法を有名にしたのは、1993年のフジテレビアナウンサーの逸見正孝氏の胃がん手術をめぐる一連の報道と論争だろう。

逸見氏は記者会見で、再発した進行性胃がんであることを自ら公表した。東京女子医大で消化器外科の「ゴッドハンド」と呼ばれた教授らによって数キロの臓器を摘出する大手術を受けたが、約3カ月後に死去した。

近藤医師は女子医大での治療について、『がん治療総決算』(文藝春秋)の中で「意味のない手術」と激しく批判し、積極的にマスコミの取材を受けた。雑誌プレジデント(2013年6月17日号)でも、「元気な人が、あっという間に変わり果てた姿で逝くのは、がんの治療のせい」などと発言。シンプルで歯切れの良い近藤医師のメッセージは多くのファンを獲得し、医学的な根拠を問題視する人は少なかった。

1995年、文藝春秋誌上で連載された『患者よ、がんと闘うな』は読者投票で1位となり、「文藝春秋読者賞」を受賞している。

その後も近藤医師は次々と標準医療を否定する著作を発表し続け、医学的な正誤はさておきヒット作を連発したので出版界の寵児となった。ただし、慶應病院では教授候補から窓際医師へと変貌し、細々とセカンドオピニオン外来を行っていた。

2014年には講師のポジションのまま定年退職を迎え、その後は都内で「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を開業し、相談料「30分3万2000円(税込)」の自由診療を行っていた。

https://president.jp/articles/-/60745?page=1