暴力によって世界は変えられることを、山上容疑者は証明してしまったのだ。

 山上容疑者のように不幸な境遇で、社会の不条理に対してマグマのように怒りを抱えている人々にとって、こんな痛快な話はないだろう。「だったらオレも山上容疑者のように」と思い立つ人間がいてもおかしくはない。そして、これはマスコミの責任だと筆者は考えている。

 海外では自爆テロ犯や、銃乱射事件の犯人などの心情などの内面をメディアは無責任に報道をしない。犯人の人間性に魅力を感じたり、共感をしてしまったりして、模倣犯を生んでしまうからだ。

 しかし、日本のマスコミにそういう配慮はない。山上容疑者の心情に寄り添い、彼がどれだけ苦しみ、悩んだかを積極的に報じている。報道する側は「旧統一教会を糾弾するために必要な情報だ」と思っているのだろうが、実はそれは山上容疑者のような不幸な家庭環境や生い立ちの人々に「成功事例」を紹介して、「山上容疑者が許されるならオレだって」というテロ予備軍をつくっている恐れがあるのだ。

 今、筆者が一番心配しているのは「国葬」だ。

 賛成している人たちは「テロに屈しないということを世界に示すためにも国葬だ」と言うが、「社会の不条理を暴力で変えていこう」という発想の人からすれば、むしろ逆だ。旧統一教会と親密な関係があった安倍元首相を「国葬」にするということは、日本社会の不条理を象徴するような話だ。もしこの舞台で再び「暴力テロ」を起こせば、安倍元首相殺害と同等のインパクトを社会に与えることができる。

 国家権力はもちろん、自民党や保守勢力などのメンツは丸つぶれだ。そして、もし犯人が山上容疑者のように、社会の不条理で苦しんでいるような弱者だったら、同情論も盛り上がる。今回の旧統一教会問題のように国民的議論に発展させていくことができる。

 もちろん、杞憂に終わることを願っているが、「国葬」以降も油断はできない。

 これから日本には第二、第三の山上容疑者が増えていくのではないか。