気ずいてしまったんだけど、もしかして俺たちって物凄く頭悪いんじゃないか? [581963685]
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========================== 頭の良さの基準が金を稼げることなら
ケンモメンは総じてバカの部類だわね 悪いからこんなとこで時間を浪費してる
20年以上もな >>5
そのへん難しいよなー
ギフテッドが孫正義財閥におまんま食わせてもらってたり、トラックの運転手やってる一方で
家柄だけで会社継いでお飾り社長やりながらヌクヌクやってる七光りもいる >>6
そもそも相手にしないわな
反応すれば喜ぶだけだから
ホリエモンとかも見ないなあ >>5
資本主義で脳みそ腐ったか
サウジの王は生まれた瞬間から知能が高いことになるぞ スマホの普及以降かなり5ch(2ch)のレベル下がったと思う。 そもそも気「づ」くな「ず」じゃねーよ
気がつきましたであって気がすきましたとは書かんだろ 俺はすでに気付いてるけどな。その分お前らよりはマシか
俺らはひろゆきよりもほんこんはんよりもチャンス三浦よりも馬鹿だぞ
もしかすると安倍晋三より馬鹿な可能性すらある >>19
ああホリエモンの代わりがひろゆきなんだろうな、アッチの界隈 どうやって気ずいてっ文字打ったんだよ
変換されないだろ 嫌儲はアベマで出てた40年精神病院に入院した男のイメージ
俺の祖父や叔父に顔が似てる
東大卒だから入院しなかっただけ 自然が弟子にしようと定めた人たちには、教師は必要でなかったのです。ヴェルラム*、デカルト、ニュートンのような人たち、これらの人類の教師たちは、決して、みずからは師をもちませんでした。彼らの広汎な天賦の才によって到達したところまで、どんな導き手が導いたのでしょうか。(導き手が)普通の教師であったならば、これら巨匠の悟性を、自分たちの悟性の狭い枠内におしこめることによって狭いものにしかできなかったでしょう。これらの巨匠たちは、最初の障害によって努力することを学び、自分たちのかけめぐった広大な空間をのりこえようと努めたのです。もし、若干の人たちに学問芸術の研究にしたがうことを認めなければならないとすれば、これらの巨匠のあとを独力でたどり進み、彼らを追いこす力を自覚している人びとに対してだけです。すなわち、人間精神の栄誉のために記念碑をうちたてることがふさわしい少数の人びとに対してだけです。
ジャン=ジャック・ルソー
学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか、どうか、について第二部
岩波文庫学問芸術論p.51~52
訳者注
五一 ヴェルラム──イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(一五六一ー一六二六)のこと。
岩波文庫学問芸術論p.218 境界性知能なやつが多すぎるネトウヨとかもろだもんな 凡人は理解できない事に
天才は理解されない事に苦しむって言うだろ? IQの表示機能はほしいな
100以下はハッキリ言って相手するだけ時間の無駄だわ 状況や空気に生かされ続けて浮かんで流されるだけなら自信なくてもいいけど、自信がないと泳げないよ
西村博之を見てみろよ
生き恥かいてるけど自信もって頑張って生きてんだろ
まずは猿山の頂点を目指せ >>26
実際、ケンモメンが見下してる安倍晋三より優秀なケンモメンなんてほとんどいない 反省しろよ自民党工作員🤨
お前らは救いようのない馬鹿だからな🤪 西村のみっともなさを見て皆わかったと思うんだけど
無理して頭いいフリするぐらいなら無知は正直に言った方がいいよ
自分を飾らない奴の方が自然に真理を突くもんだ >>54
(c)暗記することは知ることではありません。それは記憶に預かったものをしまっておくだけです。正しく知っていることならば、お手本を見なくとも、書物に目を向けなくとも、自由自在に使いこなすことができます。書物から一歩も出ない知識は実にあわれむべき知識です。私はプラトンの意見にしたがって、それを装飾にしたいとは思いますが、土台にしたいとは思いません。プラトンはこう言っています。「剛毅、信義、誠実が真の哲学であり、それ以外を目的とする学問は虚飾にすぎない」(二七)と。
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ
エセー第一巻第二十六章子供の教育について
岩波文庫エセー(一)p.289
訳注
(二七) 「アリストドロスへの手紙」一〇。
岩波文庫エセー(一)p.336
凡例
訳文中、(a)は一五八〇年版のテキストを、(b)は一五八八年版における増訂の部分を、(c)はその後モンテーニュが自筆で加筆した部分を示す。
岩波文庫エセー(一)p.3凡例 頭良けれりゃこの花の金曜日に家でケンモなんて見てねえよ 即ち、旅をするとき、我々が行きたい場所に背を向けている間は、より長くまたより速く前進すればするほど、それだけその場所から遠ざかり、従ってたとい後になって正しい道に戻されても、以前に前進しなかった場合ほど直ぐにはそこに到達できないものですが、丁度それと同じように、悪しき原理を有つ場合には、これをさらに育てあげ、かつこれこそ正しく哲学することだと考えて、そこからさまざまな結果を導き出すのに、より細心に専念すればするほど、ますます大きく真理の認識および知恵から遠ざかるということです。このことから、今まで哲学と呼ばれてきた一切のことを、最も学ばなかった人こそ、真の哲学を学ぶ能力が最もあるのだと、結論しなければならないのです。
ルネ・デカルト
哲学原理仏訳者への著者の書簡──序文にも役立ち得る──
岩波文庫哲学原理p.22 おお 徳よ! 素朴な魂の崇高な学問よ! お前を知るには多くの苦労と道具とが必要なのだろうか。お前の原則はすべての人の心の中に刻みこまれていはしないのか。お前の掟を学ぶには、自分自身の中にかえり、情念を静めて自己の良心の声に耳をかたむけるだけでは十分ではないのか。ここにこそ真の哲学がある。われわれはこれに満足することを知ろう。そして、文学の世界で不滅の生をえている、あの有名な人びとの名誉を羨やむことなく、彼らとわれわれとのあいだに、かつての二大民族*のあいだに認められたあの輝かしい区別──一つはよく語ることを知り、他はよく行うことができた──を設けるようにつとめよう。
ジャン=ジャック・ルソー
学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか、どうか、について第二部
岩波文庫学問芸術論p.54
訳者注
五四 二大民族──アテナイ人とスパルタ人とのこと。
岩波文庫学問芸術論p.218
1%くらいは話せるやつはいる すなわち、真の哲学者のいかなる書物も、ひとたびかかる人士の手にはいるや、こんにち行なわれている平凡陳腐な講壇哲学の講釈よりもはるかに彼を強力活発に鼓舞するであろう。また高等学校(ギユムナージウム)においては、哲学的精神を振起する最も有効な手段としてプラトンが熱心に読まれるべきであろう。
アルトゥール・ショーペンハウアー
余録と補遺:哲学小品集 第一巻 大学の哲学について
白水社ショーペンハウアー全集10p.203 全国民に成人したら知能検査義務付けてデコに数字で焼印して欲しい すなわち、もしも音楽を完全に正しく微に入り細をうがってくまなく説明することに成功したとすれば、いいかえれば音楽が表現するところを概念を用いて詳細に再現することに成功したとしたら、それはそのまま世界というものを概念を用いて十分に再現し説明したことにもなるのであって、同じことを別様にいえば、これこそ真の哲学になるのだといえるであろう。
アルトゥール・ショーペンハウアー
意志と表象としての世界第三巻第五十二節
中公クラシックス意志と表象としての世界Ⅱp.225 ぶっちゃけネット掲示板に書き込めてる時点で世の中の上位50%にはいるよな 頭の良い奴は掲示板とかに興味を示さない
俺はここが面白いと思ってるから頭悪い
あってるわ すでにヴェルラムのベーコン (フランシス・ベーコンのこと。ヴェルラムの男爵とよばれた) は哲学に以上のような課題を立てて、こう言っている。─
「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の“模写”と“反射”にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである」〔『学問の発達』第二巻第十三章〕─
アルトゥール・ショーペンハウアー
意志と表象としての世界第一巻第十五節
中公クラシックス意志と表象としての世界Ⅰp.185 学者にならなければ地獄に落ちるなどと神が言っているとはわたしにはとても信じられなかった。そこでわたしは、すべての書物を閉じてしまった。すべての人の目のまえにひらかれている書物が一冊だけある。それは自然という書物だ。この偉大で崇高な書物を読むことによってこそ、わたしはその神聖な著者を崇拝することを学ぶのだ。なんぴともそれを読まずにいることは許されない。その著者はすべての精神に理解されることばで、すべての人間にむかって語っているからだ。かりにわたしが人の住まない島に生まれたとしても、自分のほかにはどんな人間にも会ったことがないとしても、むかし世界の片隅であったことをぜんぜん教わらなかったとしても、わたしの理性を訓練し、育てていくなら、神がわたしにあたえている直接的な能力を十分によくもちいるなら、わたしは、神を知り、神を愛し、そのみわざを愛し、神が欲する善を欲し、神意にかなうように、この地上にある自分のあらゆる義務をはたすことを、自分で学べるだろう。それ以上のどんなことを人々の学識のすべてがわたしに教えてくれるのか。
ジャン=ジャック・ルソー
エミール、または教育について第四編サヴォワの助任司祭の信仰告白
岩波文庫エミール(中)p.269〜270 世界の本質全体を抽象的に、一般的に、しかも明瞭にもろもろの概念によって反復し、こうしてその本質を反省された模像として、理性のもろもろの永続的でつねにととのえられている概念のなかに定着させること。これこそ哲学であり、これ以外の何ものも哲学ではない。第一巻でヴェルラムのベーコンから引用した個所が心に浮かんでくる。
アルトゥール・ショーペンハウアー
意志と表象としての世界第四巻 意志としての世界の第二考察 自己認識に達した場合 生への意志の肯定と否定 第六八節
白水社ショーペンハウアー全集3意志と表象としての世界・正編Ⅱp.361 自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きなひらきがある。そのため思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間にある最初からのひらきは、ますます大きくなるばかりである。すなわち読書は精神に思想をおしつけるが、この思想はその瞬間における精神の方向や気分とは無縁、異質であり、読書と精神のこの関係は印形(いんぎょう)と印をおされる蠟(ろう)のそれに似ているのである。読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。衝動的なつながりはもちろん、気分的なつながりさえ感じない、いろいろなことを次々と考えていかなければならないのである。しかし自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束はうけても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押しつけず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。
重圧を加え続けると発条(ばね)は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。もともと愚鈍で精神を持ち合わせていない普通の人たちが、学問をつむにつれてその傾向をいよいよ強め、彼らの著作が結局失敗するのもこの安全な道を歩むからである。彼らはポープの嘲笑(ちょうしょう)の言葉どおりに、「永遠に読まれざるため、永遠の読書を続けている」(Pope,Dunciad III,194)のである。
学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙(もう)をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。
アルトゥール・ショーペンハウアー
余録と補遺思索2
岩波文庫読書についてp.6~8 わたしにはものを書くほんとうの才能がいくらかでもあったのでしょうか。わたしにはわかりません。わたしにとっては揺るぎない確信がいつも雄弁に代わるものとなっていたのですし、強い確信をもたないときには、わたしはしっかりしたことばでうまく書くことはけっしてできませんでした。ですから、わたしにあの標語(一三)〔「真理のために身を捧げる」〕をえらばせ、わたしをそれにふさわしい者にしたのは、そして、真理、あるいは真理と考えられたすべてのことに強い愛着をもたせたのは、たぶんひそかな自尊心のしわざなのです。書くために書いただけのことなら、だれもわたしの書いたものを読んでくれはしなかったろう、とわたしは信じています。
ジャン=ジャック・ルソー
マルゼルブ院長あての四通の手紙二
岩波文庫エミール(下)p.389~390
付録訳注
一三 「真理のために身を捧げる」というユウェナリスの句をきざんだ印をルソーは(一七五九年以来?)つかっていた。
岩波文庫エミール(下)p.416 これ以上見え透いた、むきだしの媚(こ)びへつらいがあるだろうか。しかし皇帝の頭の鶏冠(とさか)は直立した。権力は、神のそれに等しいと称揚されるとき、おのれについて言われる言葉をことごとく本当であると信じることができるのである。
ユウェナーリス『諷刺詩』(第4歌69~71行)
岩波文庫ローマ諷刺詩集 ペルシウス/ユウェナーリス作p.127
しかし暴君の聞き耳以上に暴力をふるうものが、何かあるだろうか。風雨や寒暑や荒れ模様の春のことなどを話題にしようと思っている側近の運命は、彼の耳一つにかかっていたのである。それゆえクリスプスは、急流に逆らってまで両腕を伸ばして泳ごうとは決してしなかった。それにまた、彼は魂からの言葉を虚心坦懐に話せる人でもなかったし、真理のために命を賭けることのできる市民でもなかった。こうして彼は長い年月を経て八十回目の夏を迎えていた。このような武器によって、彼はあのような宮廷においてすら安泰に過ごせたのである。
ユウェナーリス『諷刺詩』(第4歌86~92行)
岩波文庫ローマ諷刺詩集 ペルシウス/ユウェナーリス作p.128~129
真理のために命をささげる(Vitam Impendere Vero)
ユウェナリス『諷刺詩』第4歌91行
しかし、歴史はその進行のなかで、『社会契約論』の真価を明らかにした。『社会契約論』の公刊後二七年、ルソーの死後一一年にして勃発したフランス革命がこれであった。一七九〇年一二月、革命議会は「『エミール』と『社会契約論』の著者」を記念して、「自由なフランス国民からJ・J・ルソーへ、真理のために命をささげる(Vitam Impendere Vero)」と彼が好んで自らの標語としたジュヴェナリスの句を刻んだ銅像をたてることを決議し、さらに一七九四年四月の国民公会はルソーの遺骸を「偉人の殿堂」たるパンテオンに移葬することを決定した。国民公会の指導者ロベスピエールはこのことについて語った。「おお、なんじ真の崇高なる人類の友よ。羨望と陰謀と専制によって迫害されたなんじ、不滅のジャン・ジャックよ。この名誉はまさになんじにこそあたえらるべきものだ」(『憲法の擁護者』四號、ロベスピエール全集四巻一二三頁)と。まことに、ルソーが確信していたように、『社会契約論』はみずからのあかしを立てる日をもったのである。
河野健二
岩波文庫社会契約論p.236解説 >>1
頭が良くてもせいぜいネット将棋くらいじゃないの https://pbs.twimg.com/media/FXZr7aiagAAO4Mz?format=jpg&name=large
https://pbs.twimg.com/media/FXZr7ajacAAKma3?format=jpg&name=large
ルソーは「サヴォワの助任司祭の信仰告白」にきわめて大きな重要性を与えており、『エミール』から「信仰告白」を取り出して独立の作品としたほどだ。作品全体が万一消え去るようなことになっても、それだけは守られるべき作品として、である(24)。
「真の哲学」
われわれは理性が反対するものを信ずることはできない
「真の哲学」
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国序章啓蒙の異端者ルソー
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.10~11(永見文雄訳)及びp.14~15(注、解題)
『エミール』
出版は1762年5月。しかし出版直後から、特に第4編の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」[20]が問題視され、キリスト教勢力を中心とする激しい弾圧にさらされた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC) 一七九三年の人権宣言
第三五条:政府が人民の権利を侵害するとき、叛乱は、人民および人民の各部分にとって、もっとも神聖な権利であり、もっとも必要にして不可欠な義務である。
注(10)部分(p.41)
https://pbs.twimg.com/media/FX1x_BJaUAEVanf?format=jpg&name=large
https://pbs.twimg.com/media/FX1x_BEakAAHv8j?format=jpg&name=large
https://pbs.twimg.com/media/FX1x_BJagAAmVZU?format=jpg&name=large
人は自由であるにふさわしいから自由なのではなく、自由だからこそ尊厳ある存在になるのである。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国第1章ルソーと共和主義、正しい理解と間違った理解
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.28~29(三浦信孝訳)及びp.40〜43(注)
第三四条 社会の構成員の唯一人でも圧迫されるときは、社会統一体に対する圧制が存する。社会統一体が圧迫されるときは、その構成員に対する圧制が存する。
山嶽党憲法における権利宣言(一七九三年)
岩波文庫人権宣言集p.147
一七九三年の人権宣言
一七九三年の山岳党憲法における権利宣言 いずれにしてもこれらの頁は、それ自体のために考察された場合、一貫性と濃密さの点で際立っているということを、示せたと思う。ルソーが徹頭徹尾、「自らの生を思考する」(penser sa vie)努力をしているということに由来する、濃密さと一貫性である。しかも生を思考するに当たって、厳密で創意に富んだやり方で、彼自身の哲学の光に照らして行なおうと、努力しているのである。その点で、彼が語っている人たちとは歴然と異なっている(第三の散歩) 。「私は私よりもはるかに博学に哲学する人たちをたくさん目にしてきたが、しかし彼らの哲学はいわば彼らとは無縁なのだった」。これとは逆に、われわれが行なった読解が証明しているのだが、ルソーは「真の哲学」(véritable philosophie)を着想するのだ。こうした思考の努力が、心の高ぶりの激しさを決して変質させはしないということ、そのことが、ルソーがどの点まで作家であり同時に哲学者であるかということを、如実に示している。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 第6章 最期の言葉、『孤独な散歩者の夢想』「第一〇の散歩」を読む 永見文雄 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.192 >>1
気ずいてしまうくらいだと、そうかもしれないな… ジョゼフ・ラカナル「革命はわれわれに『社会契約論』を読むことを教えた」
「ジャン=ジャック・ルソーの遺骸のパンテオン移送についての報告」
革命歴二年フリュクティドール月二九日
一七九一年、ルイ=セバスチャン・メルシエがルソーを「最初の革命的作家の一人」と宣言した時、彼は一般に自明と受けとられていたことを言ったにすぎない。革命家たちの伝記も、彼らのうち多くの者がルソーの作品を読んで自己形成を遂げたこと、そしてその作品が彼らの演説において重要な参照項であったことを教えてくれる(3)。
注
(3) この点で、ロベスピエールは特殊というよりも数多くの例のひとつにすぎない。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 第5章 ジャン・ドブリとルソー──法律、習俗、そして人民の「暗黙の教育」 王寺賢太 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.135~136、p.157
哲学者と文学者の間を分野別に分割することは、ルソー受容に対して縮小的な効果を生んでしまう。『新エロイーズ』と『社会契約論』をただひとつの同じ作品を構成する一部分として読む人は滅多にいない。ルソーが常に「作家であり同時に哲学者」であると認める人たちはもっと少ない。『孤独な散歩者の夢想』はこうした分割に抗っており、豊かな出会いをもたらす可能性を秘めているのである。けれどもこれを「自伝的な著作」の範疇のもとに『告白』や『対話』と同一視することにも、同じく疑問の余地がある。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 第6章 最期の言葉、『孤独な散歩者の夢想』「第一〇の散歩」を読む 永見文雄 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.171 はじめに明言しておく必要があるが、ルソーはジュネーヴでの共和国的かつカルヴァン派的知的形成から、〔ペティットにならって〕非支配(non domination)の自由と定義していいような自由への愛を学び自分のものにしていた。ルソーはヴォルテールあて一七五〇年一月三〇日付で、自分がいかなる意味で「共和主義者」であるかを定義している。「私は自由を愛します。同時に支配(domination)と隷従(servitude)を憎み、他の誰にであれ支配と隷従を押しつけることを望みません」。他人に対する支配と他人から受ける支配のシンメトリーは独創的だが(6)、この定式は、古典的共和主義の直系に位置づけられる。
注
(6) ルソーは他人を従属させる者は自分自身を従属の身におくという考えをよく繰り返した。『社会契約論』第一編第一章の「自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのだ」。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 第1章 ルソーと共和主義、正しい理解と間違った理解 三浦信孝 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.24、p.40 この考察は重要なことであって、これは社会制度のあらゆる矛盾を解明する助けになる。依存状態には二つの種類がある。一つは事物への依存で、これは自然にもとづいている。もう一つは人間への依存で、これは社会にもとづいている。事物への依存はなんら道徳性をもたないのであって、自由をさまたげることなく、悪を生みだすことはない。人間への依存は、無秩序なものとして(二一)、あらゆる悪を生みだし、これによって支配者と奴隷はたがいに相手を堕落させる。社会におけるこういう悪に対抗するなんらかの方法があるとするなら、それは人間のかわりに法をおき、一般意志に現実的な力をあたえ、それをあらゆる個別意志の行為のうえにおくことだ。諸国民の法律が、自然の法則と同じように、どんな人間の力でも屈服させることができない不屈な力をもつことができるなら、そのばあいには、人間への依存はふたたび事物への依存に変わることになる。国家のうちで自然状態のあらゆる利益が社会状態の利益に結びつけられることになる。人間を悪からまぬがれさせる自由に、人間を美徳へと高める道徳性を結びつけることになる。
原注
二一 わたしの「国家基本法の原理」〔「社会契約論」〕のなかで、いかなる個別意志も社会組織のうちに秩序づけられないことが証明されている〔第二編第三章および第四編第一章〕。
ジャン=ジャック・ルソー
エミール、または教育について第二編
岩波文庫エミール(上)p.148〜149、p.498原注
付記
かんたんな説明は本文中〔 〕内にしるしたばあいもあります。原注の〔 〕内のものも訳注です。
今野一雄岩波文庫エミール(上)p.14解説 人は意志を放棄することもできなければ、意志の管理を他人に委ねることもできないのだ。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 序章 啓蒙の異端者ルソー 永見文雄 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.6 学院(コレージュ)と呼ばれる笑うべき施設をわたしは公共教育の機関とはみなさない(六)。世間の教育も考慮にいれない。世間の教育は二つの相反する目的を追求して、どちらの目的にも達することができないのだ。それは、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ところが、そういう見せかけは、すべての人に共通のものだから、だれもだませない。すべてはむだな心づかいということになる。
原注
六 いくつかの学校、とくにパリ大学には、わたしが愛し、大いに尊敬している教授がいるし、かれらは、もし既成の方法に従うことを強制されなかったら、青年を十分によく教えることができる人たちだとわたしは考えている。わたしはその一人にかれが考えた改革案を発表するようにとすすめている。人はやがて弊害には対策がないわけではないことを知ってそれを矯正しようと考えることになるだろう。〔初版本ではこの注の初めのところは「ジュネーヴのアカデミーとパリ大学には……」となっている。なお、ルソーは「学院という笑うべき施設」と書いたことをひじょうに気にしており、当時、学校教育に大きな勢力をもっていたイエス会士の報復をおそれている(「告白」第十一巻)。〕
ジャン=ジャック・ルソー
エミール、または教育について第一編
岩波文庫エミール(上)p.35~36、p.493原注
付記
かんたんな説明は本文中〔 〕内にしるしたばあいもあります。原注の〔 〕内のものも訳注です。
今野一雄岩波文庫エミール(上)p.14解説
娘たちの行く学校がないとは、たいへん不幸なことですわ。とんでもない。男の子の行く学校もなければどんなによかったことだろう。そうすれば、かれらはもっとちゃんとした、道理にかなった教育をうけられるのだ。
ジャン=ジャック・ルソー
エミール、または教育について第五編
岩波文庫エミール(下)p.21~22 「しかし」とヴィルヘルムは言った。「天才は自力で自分を救うのではないでしょうか。自ら招いた傷を自力で癒(いや)すのではないでしょうか」
「けっしてそんなことはありません。少なくとも不十分にしか癒せません。若い頃の最初の印象を消し去ることができると考えてはなりません。恵まれた自由のなかで、美しい高貴なものにとり囲まれ、立派なひとびとと交(まじ)わりながら成長した人、ほかのことを容易に理解するために、まず知らなければならないことを先生たちから教えられた人、忘れる必要のないことだけを学んだ人、善きことを将来容易に気楽に行えるように、またなにかの悪習からまぬかれる努力をする必要のないように、いかに行動すべきかを幼いうちに教えられた人、こういう人は、若い時の最初の力を、抵抗と迷誤のうちについやした人よりも、純粋で、完全で、幸福な人生を過ごすでしょう。教育については多くのことが語られ、また書かれています。しかし、他のすべてを包括するこの単純で偉大な思想を理解し、実行に移せる人はごく少数です」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ヴィルヘルム・マイスターの修業時代第二巻第九章、牧師──彼の外見と彼の演じた役柄から牧師と呼ぶことにする──、未知の人
岩波文庫ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)p.185~186
「なに、たまたまのことです。お気に召さなければ、ほかの例でもいいのです。運命が誰かを偉大な画家にしようときめたとしましょう。そして偶然がその若者を、汚ならしい小屋、“うまや”、あるいは納屋に住まわせる気になったとしましょう。そういう青年が、いつか将来、魂の純潔、高貴、自由を得ようとつとめると思いますか。若い時に汚いものを手にし、それを自分なりに醇化(じゅんか)しようとする気持が強ければ強いほど、その人はその後の人生において、いっそう手ひどくその汚いものに復讐されるのです。なぜなら、汚いものは、それをとり除こうとしているあいだに、手に負えないほどしつこくその人に染みこんでしまうからなのです。若い時を、悪い、下(くだ)らない仲間と過ごした人は、のちにもっとましな仲間とつき合えるようになっても、つねにもとの仲間をなつかしむものです。その連中の印象は彼にとって、同時に、若い時の、二度と繰り返すことのできない喜びの思い出とともに残っているからです」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ヴィルヘルム・マイスターの修業時代第二巻第九章、牧師──彼の外見と彼の演じた役柄から牧師と呼ぶことにする──、未知の人
岩波文庫ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)p.187~188 第一級の精神にふさわしい特徴は、その判断がすべて他人の世話にならず直接自分が下したものであるということである。このような精神の持ち主が提出する意見は、ことごとく自ら思索した結果であり、しかもそうであることは、そのものの言い方のはしばしにも表われている。そこでこのすぐれた人々はドイツ帝国の諸侯のように、精神の帝国において直属の臣たる資格を備えている。これに対して凡庸の徒はすべて陪臣(ばいしん)の地位に立つが、この事実は彼らの文体に照らしても推察することができる。それには彼ら自身の特徴がまったく欠けているのである。したがってこのかぎりでは、真の思索者は君主に類似している。彼はだれの力も借りず独立の地位を保ち、自らの上に立つ者はいかなる者も認めない。その判断は君主が決定する場合のように自らの絶対的権力から下され、自分自身にその根拠をもつ。すなわち君主が他人の命令を承認しないように、思索者は権威を認めず、自分で真なることを確かめたこと以外は承認しないのである。
ところが、その他大勢的な頭脳の所有者たちは、世間通用のあらゆる意見や偏見、権威にとらわれていて、法や命令に黙々と服従する民衆に近い。
アルトゥール・ショーペンハウアー
余録と補遺:哲学小品集 第二巻 さまざまな主題に関する切れぎれではあるが体系的に配列された諸思想 第二十二章自分で考えること第二六五節
岩波文庫読書についてp.18〜19
白水社ショーペンハウアー全集14p.72部分
大多数の学者にとって、彼らの学問は手段であって目的ではない。彼らがその畑で大きな業績をあげないことになるのもそのためだ。というのは、大きな業績をあげるのには、学問がそれをやる人にとって目的であり、それ以外のすべては、その学者の生存そのものでさえ、手段にすぎないということが要請されるからだ。というのは、われわれがそれ自体を目的としてやらないようなことは、すべて中途半端にしかやらないものであり、あらゆる種類の仕事において、それ自体のために生みだされ、それ以外の目的に対する手段ではないものだけが、真の卓越性をかち得るのだからである。同様に、他人(ひと)の認識のことなど気にかけず、自分独自の認識を獲得することを研究の直接目的とするような人だけが、新しい偉大な根本的洞察に行きつけるのである。ところがふつう見られる学者は、教えたり執筆したりする目的のために勉強している。だから彼らの頭は、食べたものが消化しないまま排出されるような胃や腸に似ている。だからまた、彼らの教えること、書くこともあまり役には立たないことになる。なぜなら、他人(ひと)さまの滋養になるのは不消化な排出物ではなくて、自分の血から分泌した乳だけだからだ。
アルトゥール・ショーペンハウアー
余録と補遺:哲学小品集 第二巻 さまざまな主題に関する切れぎれではあるが体系的に配列された諸思想 第二一章博識と学者について第二四七節
白水社ショーペンハウアー全集14p.47〜48 教えたり学んだりするさまざまな施設がたくさんあり、そこへまた学生や教師がどっと押しかけているのを見ると、人間にとっては見識や真理が大問題なのだと思うひとがあるかもしれない。しかしここでも外観はひとを欺くのだ。教師たちは金(かね)をもうけるために教えているのであり、彼らが得ようとしているのは知恵ではなく、知恵のみせかけと評判にすぎない。また学生は知識や見識を得ようとして学んでいるのでなく、おしゃべりのたねを仕込むため、自分に箔(はく)をつけるためだ。こうして三十年ごとに新しい種族、ひよっ子どもが世にあらわれてくるが、彼らはなにも知らず、数千年をつうじて集められた人間の知識の成果を、概略だけてっとりばやくつめこみ、しかもあらゆる過去以上に知ったかぶりをしようというのだ。こういう目的で彼らは大学に通い、書物に手を出すが、それも同時代・同年輩のものである最新の書物に限られる。とにかくすべては手みじかで新しくないとだめなのだ! 彼ら自身が新しがり屋であるように。そのうえで彼らはでたらめな判断をくだす。──もともとパンのための学問のことなどは、ここではわたしは考えにいれなかった。
アルトゥール・ショーペンハウアー
余録と補遺:哲学小品集 第二巻 さまざまな主題に関する切れぎれではあるが体系的に配列された諸思想 第二一章博識と学者について第二四四節
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