https://news.yahoo.co.jp/articles/2098e3e919e5651437eb7449a7e2ffa1830ff039
高田馬場駅を出て早稲田通りを渡り、通り沿いの11階建ての雑居ビルに入ると、
丸みを帯びたミャンマーの文字で書かれた案内板が目に入ってきた。
見慣れない食材を扱う店も所狭しと並び、異国の市場にいるような雰囲気だ。
ビルの外も、駅周辺の新宿区高田馬場から豊島区高田にかけ、路地にはミャンマー料理店が点在している。
その理由を聞くため、地域の古参のミャンマー料理店「ルビー」の店主チョウ・チョウ・ソーさん(59)のもとを訪ねると、
「もとはナカイがリトル・ヤンゴンだった」とヒントをくれた。
1988年に大規模な民主化運動が起きたミャンマー(当時のビルマ)では、国軍の武力鎮圧で多数の死者や逮捕者が出た。
その後、軍政の弾圧から逃れるため、祖国を離れ日本に渡る人も。チョウさんもその一人で、91年に日本にやって来た。
しかし、言葉もわからず、保証人もいないため部屋を借りるのが難しい。
先に来ていた仲間を頼ったところ、西武新宿線中井駅(新宿区)の周辺に複数のアパートを持つ日本人が手を差し伸べてくれた
「第2次世界大戦中にミャンマーにいた父親から、困っているミャンマー人を助けるように言われた」と、
保証人なしでも契約し、多くのミャンマー人が集まっていたという。
ただ、ミャンマー人の拠点は住宅街の中井から、徐々に高田馬場に移っていったようだ。
当時、新宿や新大久保の飲食店で働く人が多く、中井から西武線で2駅目の高田馬場で乗り換える人も多かった。
NPO法人「日本ミャンマー・カルチャーセンター」理事長の落合清司さん(60)は「亡命者はミャンマーの都会で働いていた人が多く、
中井から近く、にぎやかな高田馬場に懐かしさを感じたのでは」とみる。
95年には、ミャンマー人オーナーの雑貨店が高田馬場に開店。
その後は料理店も増え、2000年代前半には高田馬場がリトル・ヤンゴンとして知られるようになった。