他宗教・他宗派を「邪教・邪宗」と呼んだ創価学会の攻撃性は変わったのか(東洋経済オンライン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/138fafe84e7cb838a67d312e4bbd70516baeb832

創価学会というと他宗教に排他的で不寛容な教団だと世間では認識されている。創価学会の家に生まれ、誕生後すぐに入会した私は大人になるまでの過程で、この教団が他宗を激しく攻撃する姿を幾度となく見てきた。だから、世間の認識は必ずしも外れてはいない。

幼少期の話をしよう。私は、他の学会の子どもたちと同じく、親から「神社の鳥居をくぐってはいけません」「お賽銭を投げてはいけません」「他宗の神社で手を合わせてはいけません」などと教わってきた。その頃、学会では他宗教や他宗派のことを「邪教・邪宗」と呼んでいた。当時は邪教・邪宗に対して嫌悪感を抱くのが正しい学会員のあり方なのだという空気さえあった。

そんな私には、1993年、小学校6年生の時の修学旅行での忘れられない思い出がある。旅行先は日光だった。私は両親の教えを忠実に守り、その地の神社や寺で手を合わせるといった宗教的行為はしなかった。母親からは「社寺にいる間はずっと南無妙法蓮華経(=学会員が日常的な宗教儀式などで唱えるフレーズ)と心の中で唱え続けなさい」と言われていたので、それも実践した。

だが、旅行の最後の最後で私は大失態を犯してしまう。

■土産の「ダルマ人形」で母親は頭痛に

私は親を喜ばせようと土産を買った。購入したのはダルマを模した人形だった。「お母さん、喜んでくれるかなあ」と、小学生らしい心持ちで。

ところが家に帰ると母の様子がおかしい。「どうしたの?」と聞くと、朝から頭痛がするのだという。心配しつつ、私は母に贈り物でもするかのように「じゃーん!」とダルマ人形を披露した。母の形相が変わった。

「朝から頭が痛かったのは、この人形のせいだったのね!  こんな邪宗のダルマをあなたが買ったから私がこんな目に遭っているのよ!」

そう激高しながら母はダルマの人形をごみ箱に捨ててしまった。当時、私の中には「ダルマ=邪宗の祖」という認識はなかった。だから土産に選んだのだが、子どもながらにショックだった。部屋に駆け込み、ひとり泣いた記憶が今でも残っている。

こうした経験をした「創価学会2世」は我が家に限ったものではない。私と同じ2世の友人は「邪宗」の寺で購入した財布を土産に持ち帰ったところ、やはり母親が激高し、財布を奪い取るやいなや庭で燃やしてしまったという。彼のショックはいかばかりだったか・・・・・・。

創価学会はもともと日蓮正宗という日蓮系宗派の信徒団体の1つで、基本的に日蓮正宗の教えに基づいていた。そんな日蓮正宗は、たとえば「四箇の格言」と呼ばれる、他宗批判を象徴する言葉を重んじる。四箇の格言とは「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という4つのフレーズのことで、日蓮が生きていた時代の代表的な他宗教の悪性を突いた言葉である。

この格言に込められた他宗批判の思想は創価学会の布教におけるバイブル的な著作『折伏教典』にも余すところなく反映されており、そこでは「これでもか」というくらい苛烈な他宗批判が詳述されている。創価学会が右肩上がりで成長していた昭和の時代、学会員たちは『折伏教典』を片手に布教活動に出かけては「邪宗」を破折(=くじき破ること)して歩いた。この頃、日蓮正宗(と創価学会)以外の宗教はすべて邪宗・邪教だと位置づけられていたのである。

しかし時代が平成に変わる頃、こうした傾向に変化が訪れる。

■学会員に変化をもたらした2つもの

学会員たちに変化をもたらしたものは大きく2つある。

1つは、教団のカリスマリーダー池田大作氏である。池田氏は昭和の時代から他宗教、他宗派の著名人たちと対話を重ねてきていた。そこには相手を破折しようなどという姿勢は見られない。この池田氏の姿勢は、学会員たちに「他宗教、他宗派の人たちを一概に邪教の徒として斬って捨てるのではなく、それらの人たちとの間に理解の架け橋をかけることもアリなのか」という揺らぎをもたらした。

もう1つが、1991年に創価学会が日蓮正宗とたもとを分かったことだ。ここから「すべての他宗教、他宗派は邪教・邪宗」という創価学会内の常識は変わりはじめた。先に述べた通り、学会の攻撃性は日蓮正宗と歩調を合わせていたがために生まれた部分が大きいからだ。日蓮正宗と別れたことで学会は他宗教、他宗派に対するスタンスを自らの裁量で決められるようになった。