【本】人生で一度は読んでほしいオススメの本 [227847468]
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なんかある?
【本のソムリエ監修】本のおすすめ人気ランキング25選【有名な本から流行りの本まで】
https://ranking.goo.ne.jp/select/10347 思想の本ばっかで経済やビジネスの本は全然無いね笑
さすがズレ儲 >>170
経済とビジネス
わかりましたマルクス様の『賃労働と資本』読みます >>169
全然違うぞ馬鹿
社会が正常でないと犯罪という形で歪を生むという内容
つまり山上が安倍晋三を殺したのもある意味必然 流血の魔術全てのプロレスがショーである ミスター高橋 >>171←ほうらおいでなすったwww
アカwww >>175
アカ
わかりました柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』を読みます She comes first
3度の飯よりクンニ好きな俺が選ぶクンニ本第1位
この本を読む為に英語を勉強する価値がある >>170
経済学とは占いと同じレベルってのが嫌儲での定説なんよ😌 経済学が学問として恐ろしく低レベルなのは確かや
物理学で例えるならまだニュートン前のレベル
社会学と並ぶ低レベル学問の双璧 >>182
経済学も物理学も社会学も学んだことなさそう >>182
経済学って重力とか空間みたいな普遍的な指標を持つことが出来ないから1000年たっても科学にはならんとおもうよ?😌 >>182
経済学が駄目なのは実証性に乏しいからだぞ
そもそも科学以前のレベル
いちおう科学らしく見せるために数式なんかをつかって数理モデルをつくっているが
所詮ヤクタタズの箱庭で捏ね繰り回しているだけで
現実に即して無いものが多い ツァラトゥストラはかく語りき
現代訳でさらっと読めるのあったなとりあえず読んでほしい じゃあ経営学や商学は?
「トヨタ生産方式」いい本やろ🤭 梅棹忠夫 知的生産の技術
セネカ 怒りについて
藤子F不二雄 ドラえもん
司馬遼太郎 燃えよ剣
ちばてつや あしたのジョー
ショーペンハウアー 読書について
鳥山明 ドラゴンボール
手塚治虫 火の鳥
マルクスアウレリウス 自省録
井上雄彦 スラムダンク
デュマ モンテ・クリスト伯
サマセットモーム 世界の十大小説 読書案内
全部面白かったれす^q^ 私は生きた、愛した、そして大いに悩んだ
それがあの小説だ!
(ゲーテとの対話一八二四年一月二日金曜日より 『若きウェルテルの悩み』について、ゲーテ 岩波文庫ゲーテとの対話(下)p.52部分) ライ麦畑でつかまえて
星の王子さま
人間失格
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド 最近はアナウンサーの本を読んでる
コミュニケーションの達人と言われる人でも相当な苦労や努力をしてるのは非常に興味深いし、学べることがある
ケモメンも読め 司馬遼太郎だったら覇王の家が最高にして至高だぞ
いかに機関制度となったかというごり押しがひどいw 話題は一転して、『ヴェルテル』に移った。「あれもやはり」とゲーテはいった、「私がペリカン(6)のように、私自身の心臓の血であれを育てた。あの中には、私自身の胸の内からほとばしり出たものがたくさんつまっているし、感情や思想がいっぱい入っている。だからたぶん、それだけでもあんな小さな小説の十冊分ほどの長篇小説にすることもできるだろうな。それはともかく、すでにたびたびいったように、あの本は出版以来たった一回しか読み返していないよ。そしてもう二度と読んだりしないよう用心している。あれは、まったく業火そのものだ! 近づくのが気味悪いね。私は、あれを産み出した病的な状態を追体験するのが恐ろしいのさ。」
私は、ナポレオンと彼との会話のことをもち出した。私は、それを彼の未発表原稿の中にあった下書きから知り、もっとくわしく書き上げるよう、何度も彼に頼んでいたものである。「ナポレオン(7)は」と私はいった、「あなたに、『ヴェルテル』の中のある一節を示し、それが鋭い吟味にあうと耐えきれないだろう、といっており、あなたもまたそれには同意しておられます。私は、彼がどの箇所を指して言ったのか、ぜひとも知りたいものです。」──「当ててみたまえ!」とゲーテは意味ありげに微笑みながら言った。
──「さあ」と私はいった、「おおよその見当では、ロッテが、アルベルトには一言も断らず、自分の予感や恐れていることを打ち明けずに、ヴェルテルにピストルを送るところだと思いますが、たしかにあなたは、大変な努力をはらわれて、この沈黙を動機づけようとされました。しかしそれでも、友人の生命を左右するこの差し迫った場合の扱い方としては、何としても脆(もろ)いと思われます。」──「君の意見は」とゲーテはこたえた、「もちろん悪くはないよ。だが、ナポレオンがその箇所のことをいったのか、それともほかの箇所のことをいったかは、打ち明けないほうがよいと思う。しかし、今もいったとおり、君の観察も彼の観察と同様に正しいよ。」
私は、『ヴェルテル』が出版されたときに与えた大きな影響というものが、はたして時代のせいであったかどうかということを問題にした。「私は」と私はいった、「ふつう世間でいわれているそういう見方に賛成できません。『ヴェルテル』が一時代を劃(かく)したのは、それが世に現われたからであって、ある時代に現われたからではありません。およそどういう時代にも、多くの言うにいわれぬ苦悩や隠れた不満や生の倦怠(けんたい)があります。またひとりひとりの人間には、社会との摩擦や自分の素質と社会制度との葛藤がいろいろとあります。ですから、『ヴェルテル』は、たとえ今日はじめて世に出たとしても、やはり一時期を劃すものになることでしょう。」
「君のいうとおりだろう」とゲーテはこたえた、「だからこそ、この本は、今でも当時と同じように、ある若い年齢層に影響を与えているのだよ。また、私も自分自身の青年時代の憂鬱を、時代の一般的な影響や二、三のイギリスの作家の作品から推測する必要はほとんどなかったと思うね。むしろ、個人的な身辺の事情が、私を急き立て、私を悩ませ、私を『ヴェルテル』が生れたあの心理状態へひっぱりこんだのだ。私は生きた、愛した、ひどく悩んだ!──それがあの小説だ。」
「よく取沙汰されたヴェルテル時代というのも、よくよく考えてみると、明らかに世界文化の発展とは無関係で、個々の人間の人生行路と親密な関係があるのだよ。個人は誰でも生れながらの自由な自然の心を持って、古くさい世界の窮屈な形式に順応することを学ばなければならないのだ。幸福が妨げられ、活動がはばまれ、願望が満たされないのは、ある特定の時代の欠陥ではなく、すべて個々の人間の不幸なのだよ。誰でも生涯に一度は『ヴェルテル』がまるで自分ひとりのために書かれたように思われる時期を持てないとしたらみじめなことだろう。」
ヨハン・ペーター・エッカーマン
ゲーテとの対話 一八二四年一月二日 金曜日
岩波文庫ゲーテとの対話(下)p.49〜52
註(1824年)
(6) ペリカンはその雛を自分の心臓の血で養うという迷信があった。
(7) ミュラーの回想によれば、ナポレオンは、不幸な恋愛という動機のほかに、社会人としての名誉を傷つけられたという動機まで加えた点を非難した。しかしこの非難はヴェルテルの第一稿にのみあてはまるものである。この会見についてのゲーテの未定稿は、ミュラーのすすめで、後にゲーテの死の直前、補正されて『ナポレオン会見記』となった。
岩波文庫ゲーテとの対話(下)p.405註 しかし、こうした鋭いエピソードがなくても、『ヴェルテルの悩み』が、フランス革命を告げしらせ準備した書物の一つに数えられるであろうことはまちがいないのであります。
疑いもなくゲーテもそれを知っていましたし、つねにそのことにある種の誇りをいだいていました。
トーマス・マン
ゲーテの『ヴェルテル』(一九三九年)
岩波文庫講演集ゲーテを語るp.241
一切の教育者性を、教育の理念そのものを、ゲーテはルソーからえているのです。『親和力』のなかでオティーリエがいっている言葉、「わたくしたちはきわめて異常な仕方で教育されてきましたが、ほかの人たちを普通の道で教育することを、わたくしは自分の幸福な使命だと思います。わたくしはそれを否定しません*」。この言葉は真にルソー的であると同時にゲーテ的なものです。従って作家とは、自分自身はきわめて異常なやり方で教育された教育者であると定義することができます。そして作家にあっては、教育はつねに自己自身との戦いと手を取り合って進むのであります。
トーマス・マン
作家としてのゲーテの生涯(一九三三年)
岩波文庫講演集ゲーテを語るp.86
訳注
八六7 『親和力』第二部第十五章
岩波文庫講演集ゲーテを語るp.254訳注 やはりフランス革命前後のこの時代は、ヨーロッパのなかでも、いや、世界のなかでも稀にみる最高の時代の一つだと思う やはり人間として生まれたからにはこの時代のことは知りたいし、この時代のことを避けては通れない そんな予感がする 人権宣言一つ取ってもそうだという思いがする ヒカル待望の初書籍「心配すんな。全部上手くいく」
令和の時代の勝ち方がわかる
特に自己啓発書を読んでも何も変わらなかった奴は絶対読め ぼくはいま26で、ゲーテがウェルテルを書いたのが24だったけれども、この歳になって真にゲーテの気持ちがわかったというおもいがする いままで知識として知りながらも、読みながらも、15、6のころにはじめてよんだときには、真にこの本(ウェルテル)が自分のために書かれているという気がしなかった いま心情として真にこの本が自分のために書かれたというような気がする まるでこの本を読んでるとき自分がゲーテになっているような気がする ゲーテが生きているような気がする
この愛、この誓い、この情炎は、小説的な作りものではない。これはわれわれが無教育だとか粗野だとかよぶ階級の人々のあいだに、いまも至純な形で生きている。存在している。われら教養人とは──愚劣にまで教養された人間にすぎない! おねがいだから、この物語を敬虔な気持で読んでくれたまえ。今日はこれを書いて、私の気持は澄んでいる。筆蹟を見ても、いつものように湧きかえり燃えあがってはいないことが分るだろう。読んでくれたまえ、友よ、そして考えてくれたまえ。これがまた君の友の身の上でもあることを。まことに、私はこれまでこのとおりだった。これからもこのとおりであろう。しかも私は、この不幸な男の半分の気象も、半分の決断ももってはいない。くらべるさえ面はゆい。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
『若きウェルテルの悩み』第二巻一七七二年九月四日、ウェルテル
岩波文庫若きウェルテルの悩みp.143 そして、偉大な生の友であるゲーテとアルトゥール・ショーペンハウアーとの出会いは、彼の本質の方向にとって象徴的であるように私には思われます。少年の頃モーツァルトをも見た*こともあるゲーテは、老人になってから、ある夜会の席に入ってゆきながら、ちょうど読んだばかりのドクター論文『充足理由律の四根について』の著者である、そこに居合せた若い哲学者の方へ、脇目もふらずに、真直ぐに歩いていって、彼のなみなみならぬ業績に対して祝辞を述べます。そして『意志と表象としての世界』を準備していた人の手をとるのです*。
この『意志と表象としての世界』は、高度に市民的な世紀であった一九世紀の後半のヨーロッパ的ペシミズムの典型的な著作であり、一方ではワーグナーに、他方ではニーチェに、決定的な影響を与えたものでありました。伝えられるこの光景は、精神史上の不思議なめぐりあわせを意味しています。ゲーテ、ショーペンハウアー、ワーグナー、ニーチェ。──これこそ私たちの青春の輝く恒星であり、ドイツであると同時にヨーロッパであり、私たちの出所なのであります。私たちはこの出所を誇りにしています。というのも、あらゆる出所、あらゆる出所の意識は、精神的に貴族的なものであるからです。
「芸術家は出所をもたなければならない。自分がどこに由来するかを知らなければならない」とゲーテはいいました。ゲーテ、ショーペンハウアー、ワーグナー、ニーチェ。これは、私たちがその教え子である偉大な故郷の世界であり、市民的な精神の世界なのです。そしてこの市民的な精神世界は、精神世界としては、同時にまぎれもなく超市民的な精神世界であり、ゲーテの弟子であるニーチェを通じて、市民的な世界のあとにつづく、新しい、まだ名前をもたない未来の世界へつながってゆくものなのです。市民的なものは、一種の精神的超越性をもっており、それによって自分自身を止揚し転化させます。
「最も美しい教養はどこからくるのか。もしも市民からでないならば……*」というゲーテの箴言は、今日ではたいへん古風な感じをあたえる「教養」という言葉にふくまれていると思えるものよりも、さらに大きな意味を確証しているのであります。前にも私は質問したことがありますが、いままた、ふたたび質問いたします。革命的な精神の偉大な解放の行為は、「もしも市民からきたのでなければ」いったいどこからきたのでしょうか、と。
最高度の非市民化を、実験的な思想のきわめて危険な冒険を行なおうという意志と使命感、これこそ、精神自体が市民的な人間に交付したパスポートなのです。さらには、その人によって一九世紀のロマン主義が自己自身を克服し、思想の十字架にかけられたその人の犠牲の死によって、いうべからざるほど新しいものの道を切り開いたところの、新教の牧師の家系の息子であり子孫であるあのフリードリヒ・ニーチェ──彼の根は、市民的人間性という土壌以外のいったいどこにあったのでしょうか。そして、精神の力による市民的なもののこのような自己克服を、私たちはゲーテの晩年の小説『遍歴時代』のうちに見出すのです。
トーマス・マン
市民時代の代表者としてのゲーテ(一九三二年)
岩波文庫講演集ゲーテを語るp.61〜64
訳注
六二2 ゲーテ十四歳、モーツァルト七歳。
ノノ6 ビーダーマン『ゲーテ対話録』一五一六番、一八一三年十一月(六日)、A・ショーペンハウアー。
六三6 『温和なクセーニエン』Ⅸ、九二七─八行。
岩波文庫講演集ゲーテを語るp.252訳注 >>7
クーリエ・ジャポンに載ってた翻訳記事でめちゃこき下ろされてたな
普段本を読まない人がそれをカバーしようとして
こういう人類史全体の概説に騙される
人類史全体の研究者などいないから
でもミクロ単位の記述でも誤謬ばかりだと 世界史でもっともうつくしい時代の一つだよな、フランス革命は
世界史でどの時代のことをいちばんにしらなければならないか、ほかのどの時代を差し置いても、ということなら、ぼくは迷わずフランス革命前後を取る この歴史に比べれば日本史なんかすべてカスだ 学ぶ価値のないニセモノの歴史だ フランス革命は真の歴史だ 日本史はニセモノの歴史だ フランス革命の歴史を丹念に学び人権宣言の真の精神を体得するだけでも、他の腐敗した中世だとかのカスみたいな時代を学ぶ必要はもうないのである… あと学ぶ必要があるのは古代ギリシアとかローマの時代や清教徒革命や名誉革命、アメリカ独立革命、ロシア革命、そして凄惨なる第一次世界大戦や第二次世界大戦、ナポレオン戦争などか
キリストの奴隷になれとか天皇の奴隷になれとか、戦争の悲惨さとか、たしかにそれは学ぶ価値はあるけど、それは本質なんじゃなくて理想とかけ離れ過ぎた地獄がどんなものなのか書物としての歴史から学ぶ必要があるだけなんだよな… 地獄なら戦争ほどではないにせよ学校でも職場でも現代に目の前のものしてあるでしょ そういう地獄がこの世から一滴残らず消えたなら、理想としてのフランス革命を学ぶより戦争や地獄の歴史を学ぶ必要はあるかもしれない 実際、本物の国民公会議員で、「王様殺し」の張本人(ちょうほんにん)と言ってもよいサン・ジュストは、一七九四年の二月二六日と三月三日に、国民公会で演説してこう述べました。
国家のなかに、一人でも不幸な人や貧しい人がいるのを放置しておいてはならない。そういう人が一人もいなくなったときに、はじめて、諸君は、革命をなしとげ、ほんとうの共和国を建設したことになるだろう。……
フランスの領土内には、もはや、一人でも不幸な人がいてはならないし、また、他人を抑圧するような者が一人でもいてはならないのだ。諸君がそう決意していることを、全ヨーロッパに知らせるべきである。どうか願わくは、このフランスの実例が、地球の上で豊かに実を結び、徳への愛と幸福とを地球の上にゆきわたらせることを!幸福とはヨーロッパにおいて新しい理念である。
遅塚忠躬岩波ジュニア新書『フランス革命歴史における劇薬』p.14~15 まことに、フランス革命の理想は、ミリエル司教が聞いた言葉とまったく同様に、この世の不幸や悲惨を絶滅して人間の尊厳を回復することにありました。そして、『レ・ミゼラブル』の長い物語の全体が、革命のこの理想によって貫かれているのです。ユゴーは、この書物の扉(とびら)にこう書いています。「この世に無知と悲惨のあるかぎり、本書のような性質の書物も無益ではあるまい」と。
遅塚忠躬岩波ジュニア新書『フランス革命歴史における劇薬』p.15 もう地獄なら見飽きた 我々は歴史の中に地獄を探す必要はない 地獄なら目の前にたくさん開かれているのだから いつの日にか、太陽が、この地球の上で、自由な人間だけを、つまり、自分の理性以外には主人をもたない自由な人間だけを、照らすときがきっと来るだろう。
コンドルセ
『人間精神進歩史』最終章
遅塚忠躬岩波ジュニア新書『フランス革命歴史における劇薬』p.178~179
「いつの日にか、地球の上で」、どこかで聞いたような言葉ですね。そうです、あのサン・ジュストは、国内に一人の不幸な人がいることも許さないというフランス革命の理想が、いつの日にか地球の上で豊かに実を結び、幸福という新しい理念が地球の上にゆきわたることを信じておりました (一五頁) 。ジロンド派たると山岳派たるとを問わず、革命のリーダーたちは、いつの日にか、理性と幸福とが地球を支配するに違いないという、高い理想のともしびを掲げ続けたのです。
遅塚忠躬岩波ジュニア新書『フランス革命歴史における劇薬』p.179
革命の伝説
「いつの日にか」、「いつの日にか」、こう言って彼らは死んでゆきました。彼らの生涯が悲惨であると同時に偉大であったからこそ、彼らの記憶は、その掲げた理想とともに、後世に語り継がれてゆきます。それによって革命は一つの伝説になりました。
踊り子などの絵で有名な画家ドガ(一八三四~一九一七)が、まだ子供のときのことですから、たぶん一八四〇年ごろのことでしょう。幼い彼は、その母親に連れられて、ある老婦人の家を訪問しました。帰りがけに、ドガの母は、部屋の壁にロベスピエールやサン・ジュストなどの肖像が掛けられているのを見て、驚いて言いました。「まあ、あなたは、まだこんな怪物たちの肖像を掛けていらっしゃるの」。「とんでもない」とその老婦人は答えました。「怪物だなんて、とんでもない。この人たちは聖者だったのですよ」。その老婦人は、国民公会議員ルバの未亡人でした。ルバは、ロベスピエール派の一人として、テルミドールのクーデタで捕えられ、その翌朝にピストルで自殺をとげました。結婚して一年もたたないときに夫を亡くしたルバ夫人は、その生涯を通じて、ロベスピエールたちの記憶を忠実に守り続けていたのです。
遅塚忠躬岩波ジュニア新書『フランス革命歴史における劇薬』p.180~181 フランス人民はいわばその他の人類に二千年先駆けたも同然である。あるいはフランス人民は人類のなかにあって別種の存在だと感じたくなる人もいるだろう。われわれが退治した暴君どもの影にヨーロッパはいまも膝を屈している。
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール
杉本隆司訳アルベール・マチエ『革命宗教の起源』ロベスピエールと最高存在の崇拝
白水社革命宗教の起源p.197
第三条 フランス人民は以下の事柄を人間の義務の最上位に定める。すなわち不誠実と圧制を憎むこと。暴君と反逆者を罰すること。貧しい人を救うこと。弱者をいたわること。虐げられている人を保護すること。他人にできるだけ善を施すこと。そして誰に対しても不実でないこと。
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール
国民公会で採決された政令案
杉本隆司訳アルベール・マチエ『革命宗教の起源』ロベスピエールと最高存在の崇拝
白水社革命宗教の起源p.206~207 一七九三年の憲法(訳)
山本 浩三
同志社法學會
一七九三年六月二四日の憲法と人および市民の権利の宣言
憲法
権利の保障
第一二三条 フランス共和国は、忠誠、勇気、老令、孝心、不幸を尊敬する。フランス共和国は、すべての徳の守護者にその憲法の保管を託する。 人間の偉大さは、自分が悲惨であることを知っていればいるほど、それだけ大きいのである。樹木は、自分が悲惨であることを知らない。たしかに、自分が悲惨であることを知るのは悲惨であろう。しかし、人が悲惨であるのを知ることこそが偉大なのだ。すべてこういう悲惨そのものが、人間の偉大さを証明している。
パスカル『パンセ』
遅塚忠躬岩波ジュニア新書『フランス革命歴史における劇薬』p.172~173 実際、革命によって亡くなる人は悲惨だが、戦争によって死ぬ人の数に比べればその数はせいぜい数百分の一とか数千分の一、下手したらそれ以下になるわけで ほんとうの敵から目を逸らされて外敵と見做された敵と戦うことに専念された民族、国家対国家、全国民対全国民の戦いに駆り出される民族は悲惨である しかし王さまの命は、やはり戦争で死ぬ一人の人間の命と等価なのである 王さま一人と諸国民何千万、何億もの人たちの命、どちらが尊いかで王さまのほうの命を取ってしまうのが革命を軽視する人類の悲惨さよな 17 山嶽党憲法における権利宣言(一七九三年)
一七九三年六月二四日憲法律ならびに人および市民の権利の宣言(Acte constitutionnel du 24 juin 1793 et Déclaration des droits de l'homme et du citoyen)
人および市民の権利の宣言
フランス人民は、人の自然権の忘却および軽蔑が世界の不幸の諸原因にほかならないことを確信し、一の厳粛な宣言の中で、これらの神聖で譲渡し得ない権利を展示することを決意したが、その意図するところは、すべての市民が絶えずその政府の行為を社会制度すべての目的に比較し得ることにより、圧制により決して圧迫され、堕落させられないためであり、人民は、その自由およびその幸福の根底を、裁判官は、その義務の規定を、立法者は、その任務の対象を目前に置くようにするためである。その結果として人民は、至高の存在の面前で、つぎの人および市民の権利の宣言を声明する。
第一条 社会の目的は、共同の幸福である。──政府は、人にその自然で消滅することのない自然権を保障するために設けられる。
第二条 これらの権利は、平等・自由・安全・所有権である。
第三条 すべての人々は、本性により、かつ法の前に平等である。
第四条 法は、一般意志の自由かつ厳粛な表明である。法は、保護を与える場合でも、処罰を加える場合でも、すべての者のために同一である。それは正当でかつ社会に有益であることのみを命ずることができる。それは、社会に有害なことのみを禁止することができる。
第五条 すべての市民は、平等に公職に就任することができる。自由な人民は、その選出に当り、徳性および才能以外の優先事由を知るものでない。
第六条 自由は、他人の権利を害しないすべてをなし得る人の権利である。それは自然を原理とし、正義を基準とし、法を擁護者とする。その道徳的限界は、「他人が自己になすことを欲しないことを他人になすな」という格律に存する。
第七条 出版の方法でまたはその他のすべての方法でその思想および意見を表明する権利、平和的に集会する権利、祭祀の自由な実行は、禁止することができない。これらの権利を声明する必要性は、専制主義の最近における存在または追憶を前提とするものである。
第八条 安全は、社会がその構成員の各自に対し、その一身、その権利およびその所有権の保全のため、保護を与えることに存する。
第九条 法は、統治する人々の圧制に対し、公共および個人の自由を保護しなければならない。
第一一条 法律の定める場合以外において、かつその定める形式によるのでなく、ある人に対して行われた行為は、恣意的かつ暴圧的である。ある者に対し暴力によりこの行為が実行されようとしたときは、その者は、実力によりこれを撃退する権利を有する。
第一二条 恣意的行為を請願し、発令し、署名し、執行し、または執行させるような人々は、犯罪者であり、処罰されなければならない。 >>241
第一八条 すべての者は、その奉仕、その時間の拘束を契約することができる、しかしながら自己を売却し、または売却されることはできない。その一身は、譲渡し得る所有物ではない。法は、奴婢の状態をみとめない。労働する者およびこれを使用する者のあいだには、配慮および感謝の契約関係が存し得るのみである。
第二一条 公の救済は、一の神聖な負債である。社会は、不幸な市民に労働を与え、または労働することができない人々の生存の手段を確保することにより、これらの人々の生計を引きうけなければならない。
第二二条 教育は、すべての者の需要である。社会は、その全力をあげて一般の理性の進歩を助長し、教育をすべての者の手の届くところに置かなければならない。
第二三条 社会的保障は、各人にその権利の享有および保全を確保するためのすべての者の行動に存する。この保障は、国民主権の上に基礎を置くものである。
第二五条 主権は、人民に存する。それは単一かつ不可分であり、消滅することがなく、かつ譲渡することができない。
第二六条 人民のいずれの部分も、人民全体の権力を行使することができない。しかしながら主権的議会の各部分は、完全な自由をそなえてその意思を表明する権利を亨有すべきものである。
第二七条 主権を侵奪するすべての個人は、直ちに自由な人々によって死刑に処せられるべきである。
第二九条 おのおのの市民は、法を作成し、およびその受任者またはその代理人を任命する平等の権利を有する。
第三〇条 公職は、本質的に有期的である。それは優遇または褒賞とは考え得ず、義務とみなすべきである。
第三一条 人民の受任者およびその代理人の犯罪は、決して無処罰に放置されてはならない。何人も他の市民よりも自己が不可侵であると主張する権利を有しない。
第三二条 公権力の受託者に請願を提出する権利は、どのような場合にも、禁止され、停止され、または制限され得ない。
第三三条 圧制に対する抵抗は、それ以外の人権の帰結である。
第三四条 社会の構成員の唯一人でも圧迫されるときは、社会統一体に対する圧制が存する。社会統一体が圧迫されるときは、その構成員に対する圧制が存する。
第三五条 政府が人民の権利を侵害するときは、叛乱は、人民および人民の各部分のため権利の最も神聖なものでかつ義務の最も不可欠なものである。
岩波文庫人権宣言集p.141、142~144、145~147、 条項索引p.4、14一般意志→総意(17)4
一七九三年の人権宣言
一七九三年の山岳党憲法における権利宣言 一七九三年の人権宣言
第三五条:政府が人民の権利を侵害するとき、叛乱は、人民および人民の各部分にとって、もっとも神聖な権利であり、もっとも必要にして不可欠な義務である。
注(10)部分(p.41)
https://pbs.twimg.com/media/FX1x_BJaUAEVanf?format=jpg&name=large
https://pbs.twimg.com/media/FX1x_BEakAAHv8j?format=jpg&name=large
https://pbs.twimg.com/media/FX1x_BJagAAmVZU?format=jpg&name=large
人は自由であるにふさわしいから自由なのではなく、自由だからこそ尊厳ある存在になるのである。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国第1章ルソーと共和主義、正しい理解と間違った理解
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.28~29(三浦信孝訳)及びp.40~43(注)
第三四条 社会の構成員の唯一人でも圧迫されるときは、社会統一体に対する圧制が存する。社会統一体が圧迫されるときは、その構成員に対する圧制が存する。
山嶽党憲法における権利宣言(一七九三年)
岩波文庫人権宣言集p.147
一七九三年の人権宣言
一七九三年の山岳党憲法における権利宣言 現代の皇族がキリスト教系の学校に通うのも、どうも西洋の歴史や文化を学ぶためというよりも、キリスト教の人を奴隷にする精神が皇族にふさわしいからという気がしてならない 誇り高く、猛々しく、熱狂した敵の兵士にとって、キリスト教徒のストイックな精神がどれほど扱いやすいものか、想像してみていただきたい。キリスト教徒を、栄光と祖国への熱烈な愛に燃えている高潔な民族と対抗させてみてほしい。キリスト教の共和国が、スパルタやローマと敵対したと想定してみてほしい。敬虔なるキリスト教徒は、気をとり直す暇もなく打破され、圧倒され、破滅させられるだろう。命が助かるとしたら、それは敵が彼らに蔑(さげす)みの念を抱いたときでしかないだろう。ファビウスの兵士たちの誓いは、じつに見事なものだと思う(63)。彼らは死か勝利かのどちらかだとは誓わなかった。勝って帰ると誓って、その誓いを守ったのである。キリスト教徒なら、そのような誓いは立てなかっただろう。そのような誓いは神を試すことになると考えただろう。
しかし〈キリスト教の共和国〉と言ったのは間違いだった。この二つの言葉はたがいに相いれないものである。キリスト教が教えるのは、服従することと依存することだけである。キリスト教の精神は圧制にはきわめて好都合であり、圧制はいつでもこの精神を利用せずにはいられないのである。真のキリスト教徒は、奴隷となるように作られている。キリスト教徒はみずからそのことを自覚しているが、それに心を動かされない。この短い人生は、彼らの目にはそれほど価値がないものなのである。
ジャン=ジャック・ルソー
社会契約論第四篇第八章公民宗教について
光文社古典新訳文庫社会契約論/ジュネーヴ草稿p.269〜270
訳注
(63)ファビウス・マクシムスはローマの軍人で、ポエニ戦役でハンニバルを相手に負けない方式で戦い、ローマを救った。後にフェビアン協会が同じ戦略を標榜して、この将軍の名前を取ったことで有名になった。戦闘では慎重ではあっても、勇敢だったことは、プルタルコス『対比列伝』に詳しい。
光文社古典新訳文庫社会契約論/ジュネーヴ草稿p.299〜300訳注 キリスト教と天皇制はすこしにている どちらも奴隷を作るのである https://pbs.twimg.com/media/FXZr7aiagAAO4Mz?format=jpg&name=large
https://pbs.twimg.com/media/FXZr7ajacAAKma3?format=jpg&name=large
ルソーは「サヴォワの助任司祭の信仰告白」にきわめて大きな重要性を与えており、『エミール』から「信仰告白」を取り出して独立の作品としたほどだ。作品全体が万一消え去るようなことになっても、それだけは守られるべき作品として、である(24)。
われわれは理性が反対するものを信ずることはできない
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国序章啓蒙の異端者ルソー
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.10~11(永見文雄訳)及びp.14~15(注、解題)
『エミール』
出版は1762年5月。しかし出版直後から、特に第4編の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」[20]が問題視され、キリスト教勢力を中心とする激しい弾圧にさらされた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC) もう流石にこういうスレで銃病原菌鉄出す意識高い系のニワカはいなくなったな キリストのおきては、結局のところ、強力な国家組織に有益というよりはむしろ有害であるということが立証されるであろう。
ジャン=ジャック・ルソー
社会契約論または政治的権利の諸原理第四編第八章市民の宗教について
岩波文庫社会契約論p.184 ジョゼフ・ラカナル「革命はわれわれに『社会契約論』を読むことを教えた」
「ジャン=ジャック・ルソーの遺骸のパンテオン移送についての報告」
革命歴二年フリュクティドール月二九日
一七九一年、ルイ=セバスチャン・メルシエがルソーを「最初の革命的作家の一人」と宣言した時、彼は一般に自明と受けとられていたことを言ったにすぎない。革命家たちの伝記も、彼らのうち多くの者がルソーの作品を読んで自己形成を遂げたこと、そしてその作品が彼らの演説において重要な参照項であったことを教えてくれる(3)。
注
(3) この点で、ロベスピエールは特殊というよりも数多くの例のひとつにすぎない。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 第5章 ジャン・ドブリとルソー──法律、習俗、そして人民の「暗黙の教育」 王寺賢太 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.135~136、p.157 >>5
文庫だと字が小さくて読めないから原書を翻訳ツールで読んでるけど確かに面白いな われわれがめざしている目的は何か?
自由と平等を心静かに享受することである。
この永遠の正義が世に君臨することである。
自由と平等の原理が刻まれているのは大理石や石にではなく、すべての人間の心の中である。
自由と平等を忘れている奴隷の心の中にも、これを否定する暴君の心の中にさえも刻まれている。
われわれは、低俗で残酷なあらゆる情念が鎖につながれ、心広くも善をなそうとするあらゆる情念が法によって呼び覚まされるような世の中になることを望んでいる。
こうした世においては、野心とは栄光に値しようという欲求、祖国に役立とうという欲求なのである……。
ひとことで言えば、われわれは自然の願いを満たし、人類の運命を成就し、啓蒙思想の約束を果たすことを望んでいる。
願わくはフランスが、以前は奴隷状態にあった国々の中でも抜きん出て奴隷的であるとして知られたフランスが、かつて存在した自由な人民全ての栄誉をも凌駕することで、諸国民の模範とならんことを。
抑圧する者にとっては恐怖に、抑圧されている人々にとっては慰めにならんことを、世界の華とならんことを。
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール
中公新書 物語フランス革命バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで 第四章ジャコバン政府の時代 4彼らは何をしようとしたか 自由による専制
と
Twitterロベスピエールbot
から引用 はじめに明言しておく必要があるが、ルソーはジュネーヴでの共和国的かつカルヴァン派的知的形成から、〔ペティットにならって〕非支配(non domination)の自由と定義していいような自由への愛を学び自分のものにしていた。ルソーはヴォルテールあて一七五〇年一月三〇日付で、自分がいかなる意味で「共和主義者」であるかを定義している。「私は自由を愛します。同時に支配(domination)と隷従(servitude)を憎み、他の誰にであれ支配と隷従を押しつけることを望みません」。他人に対する支配と他人から受ける支配のシンメトリーは独創的だが(6)、この定式は、古典的共和主義の直系に位置づけられる。
注
(6) ルソーは他人を従属させる者は自分自身を従属の身におくという考えをよく繰り返した。『社会契約論』第一編第一章の「自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのだ」。
ブリュノ・ベルナルディ
ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学 一般意志・人民主権・共和国 第1章 ルソーと共和主義、正しい理解と間違った理解 三浦信孝 訳
勁草書房ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学p.24、p.40 プラトン 国家か弁明
ルソー エミールか社会契約論か不平等
その辺2冊で世の中のことはだいぶわかる
あとは日本人論か論語あたりを一冊
上の2冊と比べてジャップの問題点が判明する 資本論
将来、間違いなく資本主義が終わると確信できる 隷従への道
新自由主義について言及すらなら最低でもこれを読んでからにしてほしい 免許取らない奴も交通ルールの教則本だけは読んでおいてくれ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています