待ち受ける西郷軍と政府軍が激突することになるが、とりわけ激しい戦争が行われたのが、「田原坂の戦い」である。3月上旬から下旬にかけて戦闘が続いた。

当時、1日に製造できる弾薬は12万発だったが、田原坂での戦いにおいて、政府軍は1日に平均して32万発の弾を使ったというからすさまじい。政府兵は1日平均165人のペースで戦死している。西郷軍も健闘したといえるだろう。

だが、より疲弊が激しかったのは、西郷軍のほうであり、兵員や弾薬の不足に苦しめられた。現地調達するほかなく、軍資金や米、さらに馬を奪うなど、しばしば略奪を行っている。
なかには住民の殺害に至るケースもあり、西郷軍が「庶民のために立ち上がった有志たち」と言いがたい状況だったことがわかる。

西郷軍が立ち去ったあとの熊本城下について、明治10(1877)年5月25日付の『郵便報知新聞』は次のように報道している。

「焦土の異臭はなお鼻をつき、歩くのにも苦しむ。焼け残った家々では洋品、呉服、魚、肉、野菜を売らない家はない。また村木や藁で仮住まいを造る者もあるが、戦後物価は高騰して、貧しい者はそれすらできない。だから戦争前の家に戻ることもできない」

『郵便報知新聞』とは、前島密の発案によって明治5(1872)年に創刊され、翌年から日刊となった。西南戦争では、後に内閣総理大臣となる犬養毅が戦地から記事を送っており、この戦争がいかに庶民の生活を犠牲にしたかがわかる。

https://toyokeizai.net/articles/-/630546?page=4