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マジ受けるんだけど、超承久の乱~ [748563222]
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2022/11/18(金) 18:54:06.32ID:Xq6ba0WXM●?2BP(2000)

承久の乱:政子の演説が御家人を動かす、「幕府分裂」を読み違えた後鳥羽上皇

将軍・源実朝の非業の死を契機に、幕府と朝廷の対立は決定的となった。後鳥羽上皇は、全国に向けて「北条義時を討て」と命令を出した。これに対し、幕府は尼将軍・北条政子の名演説を受けて、一挙に京に攻め上がる決断を下す。武家と朝廷が武力衝突する歴史的な事件「承久の乱」が勃発した。


大内裏焼失

実朝暗殺後、その跡継ぎとして皇子(親王)の鎌倉入りを求める幕府に対して、後鳥羽上皇が出した回答は、摂関家・九条道家の三男でわずか2歳の三寅(後の藤原頼経)をしぶしぶ送り出すことだった。1219年のことである。

しかし、この幼い将軍の誕生が思わぬ大事件を引き起こしてしまう。摂津源氏の流れをくみ、平安宮の内裏(だいり、天皇の住む宮殿)を警固する要職にあった源頼茂(よりもち)はかねて「自分こそが将軍になるべきだ」と考えていた。
意に反して三寅が後継者になったことに反発し、謀反を企てていると風聞が立った。後鳥羽は追討の院宣を出したが、頼茂は大内裏に立てこもり、火を放って自害。大内裏と宝物の多くが焼失した。

いわゆる「三種の神器」を、壇ノ浦の合戦での安徳天皇入水に伴い失ってしまい、後鳥羽はかねて自らの正統性に悩んでいた。
それに加えて大内裏まで焼かれ、寝込むほどのショックを受け、「将軍の地位をめぐる内紛によって、許し難い不祥事を起こした幕府に敵意を募らせた」(坂井孝一著『鎌倉殿と執権北条氏』)。
やり場のない怒りが幕府への八つ当たりとなって表れた。 後鳥羽は大内裏再建に向け全国規模の大増税を命じたが、幕府はこれに応じなかった。


北条義時追討の院宣

実朝の身を暗殺者から守れなかったうえに、大内裏の再建資金拠出など要求をことごとく拒んだ執権・北条義時。後鳥羽の怒りは頂点に達し、1221年5月15日、東国の有力御家人に宛てた「北条義時追討の院宣」と、全国の守護・地頭に宛てた「官宣旨」(かんせんじ)をついに発布した。

その内容はおおむねこうだ。「幼い三寅を将軍と称しているが、実際は義時がほしいままに裁断を下し、政治を乱している。義時を追討せよ」 義時追討の院宣と官宣旨を出したのは、言うことを聞かぬ義時への怒りもあるが、この戦に「勝算あり」と判断したとも考えられる。
鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は、「後鳥羽院は頼朝死後の鎌倉幕府をずっと見てきた人で、内部でもめ続けているのを知っていたと思う」と話す。
かつて頼朝を支えていた御家人たちは権力闘争に明け暮れ、頼家、実朝の源家将軍は暗殺された。「頼朝の血を引く男子がいなくなった今、後鳥羽院は幕府が瓦解するのも時間の問題ではないかと思っていた」と山本氏。

院宣は幕府の本拠地である東国の有力御家人らに宛てられており、「『幕府内部にも義時の敵対者がいるはずだ。
院宣を目にすれば、朝廷の味方につくだろう』と過信していた」と同氏は見る。果たして後鳥羽の目算通りに事は運んだのだろうか。

https://news.yahoo.co.jp/articles/3b2209d719ec35323e74046759644fe05ede619e
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