https://news.yahoo.co.jp/articles/749bfd40d4e935102969f154d6910b178eb73aaf
「サクマ式ドロップ」製造元が廃業に追い込まれた、これだけの理由
またひとつ「日本の宝」が消えてしまった。
映画『火蛍の墓』に登場したことで、海外にもファンの多い「サクマ式ドロップス」を製造する佐久間製菓が2023年1月に廃業してしまうのだ。
廃業の理由は同社によれば、「新型コロナの影響による販売の落ち込みに、原材料費の高騰が重なり経営が悪化していた」からだという。
ただ、個人的にはちょっと違うのではないかと思っている。
「なぜ廃業するのですか?」とマスコミに問われたので、会社としては直近の財務状況から、「コロナ」や「原材料高騰」という要因を挙げただけ。この2つはあくまで「廃業」という決断の背を押しただけなのではないか。
同社をこのような苦境に追いやったのは、日本の多くの中小企業に共通する別の大きな問題がある。それは「新たな成長の柱」をつくることができなかったということだ。
「サクマ式ドロップス」という国民的知名度抜群のロングセラー商品への依存を断ち切ろうと、収益構造の改革などさまざまなチャレンジを続けてきたが、残念ながら現在にいたるまで結果が出すことができなかった。そのようなビジネスモデルに大きな問題を抱えてじわじわと経営が低迷していたところに、コロナが直撃してさらに追い討ちをかけるように原材料高騰があった、という構図だ。
お菓子がダメなら薬で
なぜ筆者がそのように考えるのかというと、実は今から35年以上前、佐久間製菓は「今の商売を続けていてもジリ貧だ」ということで、経営の根本から見直す大きな改革に手をつけているからだ。
実はキャンディーの販売が落ち込んでいたのは、今に始まった話ではない。80年代は子どもの数はまだ増えていたものの、メーカーが乱立して菓子のバリエーションが一気に増えたことで、高度経済成長期ほど市場が成長しなくなっていたのだ。そこで、佐久間製菓の横倉千穂社長(当時)が「生き残る」ために決断したのが、「医薬品」と「健康志向品」への参入だった。
まず工場内に新たに製造ラインを増設して注力したのが、「サクマロン」という口の中を殺菌、消毒するという医薬品ドロップだ。実は同社は1962年に「佐久間の咳止めボンボン」を開発して、三共製薬から販売するなど医薬品製造の実績があった。この「サクマロン」も67年には既に開発していて厚生労働省の認可も受けていた。
この「強み」を生かしてもうひとつの「新たな柱」としようとしていたのが、「医薬品と菓子の中間的な商材」だという健康志向品だ。ハーブエキス入りの「サクマ式ハーブドロップス」を発売したほか、「国内の大手医薬品メーカー三社にOEM(相手先ブランドでの生産)供給をするなど医薬品業種とのジョイントを着々と進めている」(同紙)とメディアからも「菓子から医薬品へ」という転身が注目されていた。
この大胆な経営改革を進めた横倉社長は、「サクマ式ドロップス」などの菓子が8割を占めている売上構成比率を変えて、菓子分野を7割まで落とすと宣言。医薬品や健康志向品を拡大して、3年後に年商50億円まで伸ばすと気を吐いていた。
「激戦区」を攻めてしまった
が、残念ながらこの目標は達成できなかった。売上構成比率は変わったが、売上目標は遠く及ばなかったのである。それがうかがえるのが、10年後の新聞報道だ。
『佐久間製菓の年間売上高は約37億円(95年9月期)。ロングセラーの「サクマ式ドロップス」が主力で、健康志向型商品はまだ全体の3割程度にとどまっている』
なぜ「新たな柱」は育たなかったのか。答えはシンプルで、実は佐久間製菓が自分たちの「強み」だと考えて参入した分野というのは、他の多くのプレイヤーも自分たちの「強み」と考えて既に参入しており、激しい競争を繰り広げていた「レッドオーシャン」だったのだ。
例えば、同社が「佐久間の咳止めボンボン」を販売した62年というのは、4種の生薬を入れたドロップ「固形浅田飴クール」「固形浅田飴ニッキ」が発売された年だ。
浅田飴は大正時代から売られていたが、この商品が「せき・こえ・のどに浅田飴」というキャッチコピーとともにテレビCMで流されたことで、さらに人気となった。これを受けて、龍角散も67年に「龍角散トローチ」を発売している。
「競合」も既に動いていた。佐久間製菓が医薬品と健康志向品の製造ラインを増設していた84年からさかのぼること3年、81年にカンロ飴は「健康のど飴」を発売している。これは同社の沿革によれば、『菓子食品分野で初となる「のど飴」』だという。実際、これ以降、多くのメーカーが「のど飴」分野に参入していく。
つまり、佐久間製菓が「サクマ式ドロップス」に代わる「新しい柱」として期待していたジャンルは、既に多