「実はこんな面白い史料があるんです」と見せられたのは国立公文書館のデジタルアーカイブだった。江戸時代前期の正保元(1644)年に
幕府が諸藩に命じて作らせた城下町の地図「正保城絵図」。その一つ「伊予国大洲之絵図」で冨士山の場所を見ると驚いた。山田さんは「
ひらがなで『と“び”す』と書かれています。幕府に提出するものだから、当時はそう呼ばれていたんでしょう」と話す。
一方で、「少なくとも(明治以降の)近代に入ってからはとみすと呼ばれている」とも。例えば、昭和10(1935)年発行の観光冊子「大洲案内」では
「とみす」であることが確認できるからだ。
https://mainichi.jp/articles/20221224/k00/00m/040/150000c