初詣、除夜の鐘、重箱おせちとその中身、年賀状⇐ここらへんが全部明治以後に出来たエセ伝統だと知ってどう思った? [112216472]
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たとえば正月。無病息災などを祈念するため、初詣に行かれる方は多いだろう。この風習、なんとなく大昔からあるような感じがするが、実は誕生は明治中期である。
1872年、東海道線開通が開通し、川崎大師へのアクセスが容易になる。川崎大師は江戸から見て恵方にあたり、
行楽も兼ねて参詣に行く人が急増し、特に1月21日の縁日(初大師)は大盛況となった。
とはいえ、恵方は5年に1回しか来ない。当たり前だが鉄道会社としては毎年来てくれたほうが儲かる。そこで、大晦日から寺社に籠って元日を迎える
「年籠り」、年明けはじめての縁日に参詣する「初縁日」、居住地から見て恵方にある寺社を参詣する「恵方詣り」
といった古来からの行事を組み合わせ、縁日も恵方も関係ない「初詣」をつくりあげ宣伝文句としたわけだ。
https://toyokeizai.net/articles/-/203441?page=2
もう少し正月つながりでいくと、「重箱のおせち」もかなり新しい伝統だ。おせちは「お節」と書き、祝いの席の料理として奈良時代から存在したが、
正月のおせちを重箱に詰めるようになったのは幕末から明治にかけてで、戦後、デパートの販売戦略によって定着した。
除夜の鐘が始まったのは昭和2年!?
一般の人々は、除夜の鐘を非常に伝統的な行事だと捉えている。NHKで「紅白歌合戦」が終われば、テレビの画面は「行く年来る年」に切り替わる。
そして年の変わり目と共に、雪深い寺院で除夜の鐘が静かに鳴り響く――。こんな光景が失われていくのかと、危機感を抱く方も少なくないだろう。
ところが、そんな思いを浮かべること自体、間違いらしい。矢澤編集長によると、そもそも除夜の鐘は昭和初期に始まった行事だという。仏教の長い歴史の前には、文字通りの“新参者”なのだ。
「由来には諸説がありますが、昭和2年にNHKラジオの『除夜の鐘(現:行く年来る年)』の番組で、上野・寛永寺に頼んで除夜の鐘として生中継し、
これが契機となって全国の寺院が取り入れたことに間違いはありません。これは寺の鐘が時計としての役割を果たしていた歴史を考えれば、
簡単に理解していただけると思います。例えば江戸時代、真夜中に寺が鐘を撞くことなど、あり得ないからです」
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/12300555/?all=1&page=2 伝統ってのは明治以降に出来たものだからエセ伝統ではない その後の伝統
バレンタイン
クリスマスケンタッキー
恵方巻
食い物ばっかだな 2023年(西暦もジャップ由来だと思ってる)続いてる伝統だぞーー!!!!
って本気で思ってるよ しかも除夜の鐘は戦時中に回収されてるから多くは工場で作られた再生品なんだよな >これは寺の鐘が時計としての役割を果たしていた歴史を考えれば、
簡単に理解していただけると思います。例えば江戸時代、真夜中に寺が鐘を撞くことなど、あり得ないからです
あり得ない理由がわからん 大晦日だけ鳴らすことがあってもいいし説明になってないだろ(真偽は知らないけど) >>1
一年中、常に何かの日だからな。
疲れたよ。 それらをもっと早いうちから指摘して
やめさせられなかった左派やリベラルは責任を感じるべき
彼らも江戸時代暗黒史観があったから
明治維新を完全否定できなかったのだろうが どう思ったって
頭が徳川から薩長に代わったぐらいであっさり淘汰された江戸時代の伝統ってクソ貧弱なんですねとしか まずその伝統なら何でも良しとする考えがもう変だと思ってる 明治は近代に分類されるから
伝統ってのは古くからある習わしのこと
近代は古くない と言うことは300年経とうが500年経とうが近代なり現代の次の時代が来ない限り永遠に伝統にはなれないってこと? ぶっちゃけ数十年もやりゃ立派な伝統文化だと思う。
古来よりやってない似非伝統は認めないとか原理主義のケンモメンはネトウヨと変わらん。
発端は企業や広告代理店が仕掛けたとしても、日本人の生活や慣習に合わないものは残らないし。 それ以前の日本は戦争で負けて滅んでる歴史の浅い国だから当然でしょ >>12
そもそも暦が違ったから別の日が正月だった
江戸時代までは旧正月(今の暦の2月頭くらい)が正月だった 一円硬貨 1955年6月1日~ 67年7ヵ月
五円硬貨 ゴシック 1959年9月1日~ 63年4ヵ月
十円硬貨 ギザ無し 1959年2月16日~ 63年10ヵ月16日
五十円硬貨 3代目 1967年2月1日~ 55年11ヵ月
百円硬貨 3代目 1967年2月1日~ 55年11ヵ月
五百円硬貨 3代目 2021年11月1日~ 1年2ヵ月 🟣 おおよその江戸時代
🔴 おおよその相場
江戸時代 前期 中期 後期 幕末
1両 = 4000文 5000文 6000文 10000文
🟠 おおよその円換算
五両 50万円 50万円 45万円 60万円 五両判金 1837年~
一両 10万円 10万円 9万円 12万円 一両判金 1601年~
二分 5万円 5万円 4万5000円 6万円 二分金 1818年~
一分 2万5000円 2万5000円 2万2500円 3万円 一分(金) 1601年~ (銀) 1837年~
二朱 1万2500円 1万2500円 1万1250円 1万5000円 二朱(金) 1697~1710年 1832年~ (銀) 1770年~
一朱 6250円 6250円 5625円 7500円 一朱(金) 1824年~ (銀) 1829年~
百文 2500円 2000円 1500円 1200円 天保通宝 1835年~
四文 100円 80円 60円 48円 寛永通宝 四文銭 1768年~
一文 25円 20円 15円 12円 寛永通宝 一文銭 1636年~ 江戸時代の貨幣制度
https:/www.bk.mufg.jp/currency_museum/exhibit/japan/imgs/japan_lightbox_07.jpg
江戸時代の貨幣の種類は複数ありましたが
一般庶民が実際に使うお金の種類は
一文銭、江戸後期は四文銭や天保通宝(百文銭)、
銀貨の豆板銀・一朱銀・二朱銀が多かったようです。
同じ一朱、二朱の額面でも一般への流通量が多く
大きく使い勝手もよく、紛失しにくい銀貨の方がよく使われてました。
https:/kaitori-navisan.com/kosen/wp-content/uploads/2018/01/bf6f9a8c073e862f425082a388e1c71f-1.jpg 江戸時代の独身男性は洗濯はどうしてたのか…?
仕事前や後に毎日自分で洗ってたのだろうか…?
江戸の庶民はほぼ毎日銭湯に通ってひとっ風呂浴びてたのだが
その際着ていた服やふんどしを銭湯に預けて洗濯してもらい
お風呂から上がった時に前日以前に預けて洗ってもらった
服やふんどしを受け取って着換えていたとされる
風呂から上がってその日の洗っていない衣類を着てた訳ではない
また銭湯側も1人8~12文程度の湯代だけでは勿論やって活けないので…
洗濯業務プラス2階に風呂上がりの人がくつろげて
ちょっとしたお酒や小料理を摘める座敷も備えて
それぞれの商売で別途にお金を受け取ってたとされる 江戸時代の庶民はよく「夜越しの銭は持たねぇ」と伝えられてますが
何もその日1日稼ぎを全額毎日使い切ってた訳では無い
江戸時代は基本細かい寛永通宝などで無いと買い物が出来ないので
頂いた日当を両替屋に行って崩していた
その際全額を寛永通宝の束だらけにしてた訳では無く
その日使う分だけを寛永通宝に崩して手元に持ってコレがいわゆる「夜越しの銭」
残りの使わない分は勿論預けていた
日当を支払う側も寛永通宝の束だらけになって支払いをしていた訳では無く
二朱銀や一朱銀、その登場前は証紙みたいな物を渡していたらしい
勿論、貯金した際は控えとなる証紙を受け取っていた 江戸時代の後期から幕末にかけては銭の価値が下がった…
大抵の人は1日一朱ぐらいは稼ぐので両替して貰える寛永通宝の文の数そのものは増えた
しかしながらそれ以上に物価が高騰していました
事情も違うし幕末ほど極端では無いですが
今と状況は似てますね… それ以前はその手の文化が存在しなかったのか、新しい様式にとって替わられて消滅したのかが気になる >1-30
富裕さん
2022年 大晦日に、
スーパー西友での、売れ残り、
1980円 おせち詰め合わせを、
900円で購入。
ロースカツ弁当
トマトサラダ
インスタント味噌汁
唐揚げ
ご飯パック
インスタント 味噌汁
1日分 半分 サラダ パック
ここらで、おせちの6時間を、
いま、ペタ満喫して、ごめんなww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています