https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221214/k10013917161000.html

認知症の妻へ 53年分の「ありがとう」

妻にはもう夫が誰だか分からなくなっていました。
それでも夫は病院にいる妻へ手紙を書き続けました。

もうほとんど見えなくなった目で、感謝の気持ちをこめて。

その数は200通を超えました。53年間、一緒に障害や病気を乗り越え、連れ添ってきた夫婦の絆です
ひと言ひと言 書き続ける手紙
認知症で入院する妻の朋子さんに1年半にわたって手紙を送り続けている松岡義人さん、82歳。
鳥取市でしんきゅう師として働いています。
弱視で、障害者程度等級が一番重い“1級"に認定されています。
松岡さんはパソコンを使って手紙を書きます。
キーボードで打ちこんだ文字を、テキスト音声読み上げ機能を使ってひと言ひと言確認します。
拡大ルーペを使うのは、漢字の変換ミスなどをチェックするため。
ここ数年で視力がさらに落ち、小さい文字を見るのがつらくなってきたと言います。
松岡さんの手紙
「先日は髪を美容師さんにカットしてもらって良かったですね。キッとステキナ姿になったことでしょう」
「寒くなりましたので暖かいパジャマを看護師さんにことづけますね」
「コロナのため会えないのは残念ですが離れていても二人の心は通じています」
(一部抜粋/原文ママ)
季節の便り、昔の思い出、励ましのことば。
週に2回、病院に洗濯した着替えを届けるときに必ず手紙を添えます。
1人きりで入院している妻の朋子さんに「離れていても心は繋がっている」と伝え、励ましてきました。
ずっと2人で53年
2人が結婚したのは、53年前。
服飾デザイナーだった朋子さんと、盲学校の教員をしていた松岡さんは、知人の紹介でお見合いをしました。
もともと朋子さんは人見知りで引っ込み思案な性格でした。
周りは障害のある松岡さんと結婚するとは思ってもいませんでした。
松岡義人さん
「50年ちょっと前は、障害のある者との結婚はハードルが高かったんです。障害者に対する理解が今ほどありませんでしたからね。大変な決断ではなかったかな。なかなかそういう決断をするようなタイプではないと(朋子さんの)姉は言っていました。何か、お互いに気持ちがひかれたというか、感ずるものがあったのではないでしょうか」
松岡さんは、自分が人生を今日まで豊かに過ごして来られたのは妻の朋子さんの支えのおかげだと考えています。
結婚して以来、けんかをしたことはほとんどなく、どこに行くにも一緒でした。
松岡義人さん
「映画館へ行くと字幕スーパーがあるでしょ、あれ読めませんからね。(朋子さんが)小さな声で隣の席でささやくように時々読んでくれた。映画館に入っても真ん中のほうには行かないで、2人で隅っこの、端っこの方で見たりしました」
そばでいつも、松岡さんを支えてくれる妻でした。
「ごめんね、ありがとう」が増えて
そんな朋子さんが認知症を発症したのは、7年前、74歳のときでした。
徐々に、服の着替えや食事の準備などもできなくなっていきました。
松岡義人さん
「食事の準備や朝の着替えを手伝うと、そのたびごとに『ごめんね、ありがとう』と。妻も自分の病状が分かっているようで、それがかわいそうでしたね。病気のことを理解していた。自分がだんだんと衰えていくことを分かっていたと思います」
去年4月。
体力も少しずつ落ちていた朋子さんは、朝食のときに椅子から立ち上がれなくなり、そのまま入院しました。
朋子さんからの手紙
入院した当初は、松岡さんの手紙に対して朋子さんから直筆の返信が届くこともありました。
しかしこの1年で朋子さんの症状はさらに進行。
ことしに入ってからは返事は1通もありません。
「新聞社の人ですか」
松岡さんに、そう問いかけたことも。
松岡さんのことも分からなくなり、呼びかけへの反応も乏しくなりました。
妻へ、感謝の気持ちをこめて
入院以来コロナ禍のため、松岡さんたちは思うように会うことができません。
ことし、松岡さんが朋子さんに会えたのはわずか2回。
朋子さんが寂しい思いをしているのではと考えた松岡さんは、朋子さんの誕生日にプレゼントを贈って励まそうと考えました。
朋子さんの好きなピンク色のパジャマとベスト。
そして、これまで書きためた手紙などをまとめた20ページの小さな本です。
松岡義人さん
「この日を迎えられたことは最大の喜びという感じでしょうか。精いっぱい労をねぎらうといいますか、82歳まで頑張ってきたねということ」
タイトルは、これまでの感謝をこめて「ありがとう ともこへ2022」。
「2022」には、来年も同じように誕生日を祝いたいという願