あーさーくーらー💢 [266273502]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
垢版 |
2023/01/02(月) 13:41:09.25?2BP(1000)

https://www.sankei.com/article/20230102-DRM5CJQPBFJFVBJJFDCGC2OURE/

「浅草の星」へ ナイツ新春インタビュー

令和5年がスタートした。昨年を象徴する漢字は「戦」だった。今年は明るく過ごしたい。多くの外国人観光客が訪れる一方で、お笑いを生んできたまちでもある浅草。そこでいま活躍するナイツにインタビューした。

浅草からスターを
昨年12月16日夕、台東区浅草の演芸場「東洋館」は、平日にもかかわらずおよそ200の客席を満員の観客が埋め尽くしていた。客席後方には補助席が用意されるほどの超満員。出囃子(でばやし)とともに人気お笑いコンビ「ナイツ」の2人が舞台に登場すると、客席からは大きな拍手が湧き上がった。この日は、開催中だったサッカーワールドカップが話題に。ボケの塙が「サムライブルーのことをインターネットのヤホーで調べてきました」とお決まりのフレーズを発し、土屋が「ヤフーね」と突っ込むと、客席に笑い声が響く。その後も約15分間、客席には、何度も爆笑の渦が巻き起こった。


ナイツは、創価大落語研究会で出会った塙宣之(44)と土屋伸之(44)によって平成12年に結成。演歌歌手だった土屋の母がかつて所属していた縁もあり、マセキ芸能社に入り、お笑い芸人として活動を始めた。

マセキ芸能社の当時の社長、柵木(ませき)真(平成28年死去)は所属芸人から毎年、浅草を拠点とする漫才協会への入会者を出すことを慣例にしていた。「浅草からスターを出す」という夢を持っていたからだ。ナイツにも声が掛かったが、2人はテレビに出ることを目標にしていて、当時は「断るつもりだった」という。
コンビとして本格的に活動し始めた13年に若手漫才師対象の漫才コンテスト「M-1グランプリ」が創設された。ナイツも出場したが2回戦で敗退。同世代の芸人が決勝で活躍する姿に、刺激を受けた。

14年、事務所の説得で漫才協会入りが決まった。漫才コンビ「内海桂子・好江」で活躍し、漫才協会の会長を務めていた内海桂子(令和2年死去)に弟子入りすることになった。

この頃、2人にとって漫才協会と浅草は、決して居心地のよい場所ではなかった。
「テレビに出るためにどうしたらいいのかで頭がいっぱいになってるときに、寄席に出ろって言われても。絶対やりたくない感じでした」と塙。「最初はやっぱりきつかった。東洋館もウケないし、夜に若手のライブに行って『漫才協会に入った』って話をすると、若いお客さんは引いていた」と土屋は振り返る。
少ない客
萩本欽一やビートたけしら、テレビで活躍するコメディアンや芸人を輩出してきた浅草。萩本が見習いで最初に入った「浅草東洋劇場」は昭和46年に閉館。現在は同じ場所に立つ建物の1階で「浅草演芸ホール」、4階で「東洋館」が営業している。周辺にはかつて、多くの映画館などがひしめき、にぎわいをみせていたが、時代の流れとともに廃れていた。
ナイツの2人が漫才協会へ入った頃は、まさに冬の時代。塙は「本当に(映画の)セットみたいに古くて、完全に寂れた街。昼間でも人がほとんどいなかった」と振り返る。

街に人がいなければ、当然、演芸場にも客は入らない。テレビなどで活躍してきた師匠たちも舞台に立っていたが、約200席ある東洋館の客席は、多くても数十人、少ない時は数人しか入らなかったときもあった。

2人は、出番を待つ師匠らにお茶を出したり、音響の手伝いをしたり、時には路上で呼び込みをしたりしながら、舞台に立ち続けた。ネタはウケなかったが、漫才協会の師匠たちは優しかった。


お金のない若手時代、師匠たちが食事に連れて行ってくれることがあった。2人の印象に残っているのは演芸場を主な活動の場としていたチャンス青木(平成28年死去)がよく連れて行ってくれた焼肉店。「店の前に番犬のドーベルマンがいた」(塙)。「人間の犬歯じゃ太刀打ちできないくらい硬い肉が出てきた」(土屋)という、お笑いのネタのような店だった。

焦り
漫才協会に所属したことで東洋館の舞台に立っていたが、出番は昼のみ、月に5日程度。夜は若手中心のお笑いライブにも出演していた。昼の東洋館のお客さんはお年寄り中心だが、夜のライブは若い女性が多く、全く異なる客層に戸惑うこともあった。土屋は「いつまでもここ(浅草)にいたくないみたいな感じに思ってたのかな。だからどっちでもウケなかった」と振り返る。
同世代の芸人の中には、多くのライブに出演し、確実に力をつけていく者も出始めた。どっちつかずの自分たちに焦りを感じ始めた。
「浅草のナイツって言われるようになろう」(塙)。2人が浅草を武器にして「浅草の星」への一歩を踏み出したのは、東洋館の舞台に立つようになって約5年がたったころだった。
0002番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ブーイモ MMb6-8W3m)
垢版 |
2023/01/02(月) 14:03:28.83ID:9RxbSKzdM
テーレッテテーレッテテッテテー
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況