【悲報】古代朝鮮神話「西暦157年。太陽の精と月の精が岩に乗って東の島に渡り王となりました」あっ.... [237216734]
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阿達羅王四年(西暦157年)、新羅の東海岸に延烏朗・細烏女という夫婦が住んでいた。ある日延烏朗が海岸で海藻を採っていると大きな岩があって延烏朗を日本まで運んでいってしまった。日本の国の人はただの人ではないと言って延烏朗を国王にしてしまった。細烏女が延烏朗を捜しに海岸へ行くとまた岩がありその上に夫の履き物が置いてあった。その岩の上にのると細烏女を日本へつれていった。細烏女は延烏朗に再会し王妃となった。
この時新羅に日月の光が無くなった。日官が国王に「この原因は日月の精が日本に行った為です」と奏上した為、王は二人を捜しにやったが二人は日本へ帰らなかった。その代わり二人の娘の織った生絹を使いに渡し、天に祭るように言った。使者が新羅に帰ってから言葉通り天に祈ると、太陽と月がもとに戻った。この時祈った場所を迎日県又は都祈野という。
http://www.kotenmon.com/ecl/densetsu.htm
日本神話「饒速日は天磐船(あまのいわふね)に乗って日本にやってきました」
あっ....
アマテラスいるから太陽は分かるけど月がよくわからん
・原住民が縄文人で琉球人
・弥生人が稲作を伝えた朝鮮人
・本州に住む日本人の大半が弥生人
よって天皇家は朝鮮人の血を引いている
現上皇自身が、朝鮮と縁があるって発言してるしな
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_241101.html アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスター(注2)に属することも分かった
遺伝的にも証明されているからな
戦国時代はその渡ってきたバカを皆殺しにした結果起きたんだぜ?
つまり我々が真の朝鮮人であり現在半島に居着いているのは偽物の朝鮮人だってこと?
今すぐ領土を我々に明け渡すべきでは?
ニニギノミコトが天孫降臨して初めて放った言葉(参照:古事記)
「ここは韓国と向かい合っていて素晴らしい土地だなぁ」
天日矛の物語なのかもしれない
パズルのピースが合わさる定期
だからかと納得できることばかり
生まれたら負けだわこんなもん
>>17 そんなんあったっけ
ニニギが降り立ったのは高千穂やろ
それで?
だから朝鮮人と仲良くして欲しいとか思ってるわけ?
半島日本語
半島日本語(はんとうにほんご、はんとうにっぽんご、英語: Peninsular Japonic)は現在、多くの言語学者がかつて朝鮮半島の中央部と南部で話されていたと想定している絶滅した日琉語族の一種。古代の文献に記載されている地名(主に『三国史記』(1145年編纂))が論拠となっている[1]。
>>27 原文)
於是詔之、此地者、向韓国、真来通笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。
↓
訳)
ニニギは言いました。
「この土地は韓国に対峙していて、笠沙の御崎にまっすぐに通り、朝日がしっかりと注ぐ国で、夕日が照らす国だ。
ここはとても良い土地だ」
似てるも何も、遺伝子検査で日本人の先祖は韓国人だって結果出てたやん…
▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』
▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』
▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』
▼ハシゲ徹(大阪民國総統)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』
▼ユン・サンヒョン(南朝鮮出身・俳優)
『大阪は人の感じがなんとなく韓国人に近いようで親近感を持ちます』
>>31 日本占領時代に大日本帝国の兵士が見境なしにレイプしまくってんだから
遺伝子が混ざるのは仕方がない。
韓国側の遺伝子が汚されてんのよ。
新羅本紀
14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。
57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
(注:前漢・後漢の1里は415.8mなので、一千里は415.8kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽烏を派遣して、これを防がせたが、勝てず、羽烏は戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
122年 夏四月に都の人々が倭兵が大いに来ると噂して、争って山や谷に遁れたので、王は伊飡翌宗等に命じて諭してこれを止めさせた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際を求めて来訪した。
173年 倭女王卑弥乎が使者を遣わして交際を求めて来訪した。
193年 六月、倭人が大飢饉となり、食を求める者が千余人も来た。
『三国史記』によると新羅の祖の赫居世居西干は異国人
『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄である稻飯命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
『三国史記』によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は倭人
『三国遺事』によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
『古事記』『日本書紀』によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
『三国史記』によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は倭人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたり)
『三国史記』によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(おそらく金氏も倭人)
国王が逃げ出してそのまま帰ってこないってどんだけクソな土地だったんだ
そしてジャップの神になりましたとさ
めでたしめでたし
弥生人や天皇家は中国南部やベトナムあたりから逃げてきた水田稲作一族やと思ってる
>>48 で?証拠は?
一応日本で見つかってる農具は朝鮮半島由来のものしか見つかってないぞ?間抜け
初期弥生人O1b2-47Zは船で山東半島、北九州、沿海州を自由に行き来できる海洋民族であった。
ただ日本に来る直前は沿海州にいた。で問題ないだろう。これで弥生人のmtハプロが多様で多起源なことが説明できる。
それに対しO1b2-L682は水田農耕民や技術者で古墳期以降、本格的に近畿から勢力を広げる(高塚古墳勢力)。
斉藤教授も渡来人を海の民と農耕民に分けるべきだと主張している。
O1b2(L682) 朝鮮半島で高頻度。
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png 義務教育(社会科)で習うレベル
【渡来人】
4世紀後半以来、日本が朝鮮に進出するようになって、多くの中国人や朝鮮人が日本本土に渡来した。このような人たちを渡来人という。
4世紀には、高句麗の進出によって楽浪が滅亡し、半島における漢民族の勢力は失われた。
その遺民は百済に亡命。
この影響をうけ朝鮮半島や中国人の多くが日本に亡命または、技術者として送られた。
とくに7世紀になると百済・高句麗が滅ぼされると、その遺民が日本へ多数帰化した。
当時の渡来人は百済人がもっとも多いが、神羅・高句麗・中国の者も多数いた。
この高度の技術者を大和朝廷や豪族は喜んで受け入れた。朝廷は渡来人を(部)に編入し、渡来人は当時の、社会・産業・木工・酒造を受け渡し。日本文化の多大な影響を与えた。
文字の習得や仏教の受容はもとより、氏名制度の影響は百済の制度の影響を強く受けている。
この民族移入をへて本土史はいっきに国力を高めていく。
朝鮮半島由来の農具はもともと水田用でなくて田畑を耕すために発達していた
それが水田にも利用される改良型が現れてそれがジャップ列島にも伝わったとされている
>>8 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%A8%E3%83%9F ツクヨミは、月の神とされている[3]
記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる[注釈 1]。
韓国人が日本の武神だって、天皇の先祖だって教育したのは
大日本帝国の朝鮮総督府だよ。
お前らは天皇の先祖なんだから特攻しっろって洗脳してたわけ。
武神なんだから日本の守れってな。
やはり日王は半島出身だったのかw
でも流された先に定住して帰ってこなかったってことはある意味半島を捨てたということでもあるからなw
どんだけ嫌だったんだ半島…w
>>55 あー違うよ
日本統治下の教育では、朝鮮民族はスサノオの子孫で大和民族との関係では弟民族に位置する。と下に置かれてた
実際には逆だったわけだが
>>45 恐らくスサノオはコレ
九州から新羅に渡って、ひと暴れしたが、新羅はクソの地と言い放ち、日本にすぐ戻ってきた
新羅本紀
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
122年 夏四月に都の人々が倭兵が大いに来ると噂して、争って山や谷に遁れたので、王は伊飡翌宗等に命じて諭してこれを止めさせた。
123年 春三月に倭国と講和した。
>>13 アイヌ人は縄文人を同化したから遺伝的にはそうかもしれないけど文化的には違うからな
沖縄と同一視するのは思慮が足りない
>>58 ローマ帝国絶頂期の土人の小競り合いじゃん。
どっちも文明に切り離された辺境の野人。
大山古墳は間違いなくこの神話の王の為のものなんだよな
3000年も4000年も前ならともかく
西暦の地代なら岩に乗って海を渡ったとかじゃなく
もっとちゃんとした記録があるんじゃないの
西暦に神話とか言ってる国の記録にどれだけ信憑性があるのか?
>>63 まったくないよ。
文字で書かれた手泊図みたいなもんだ。
当時から国力が違いすぎる
倭国大乱で農地が荒れ、食い物が無くなったら、簡単に好き放題に朝鮮に踏み込んで行くんだからな
新羅本紀
193年 六月、倭人が大飢饉となり、食を求める者が千余人も来た。
ってか日本神話って神様が日本列島をつくるところから始まるのに、ナチュラルに朝鮮半島出てくるよね…
つまり朝鮮半島は日本列島が認知されるより前に認知されてたって話だよね
>>56 三韓征伐でさんざん朝鮮半島に未練たらたらだったのにぃ?
>>42 そうそう倭はその程度だった
で、4世紀に全身鎧に包まれた高句麗重装騎兵と衝突して蹴散らされちゃうんだよな
こっから倭国も騎兵の必要性を学んだようで日本列島各地に馬具の出土などが見られるようになる
https://i.imgur.com/E7xFkaQ.jpg https://i.imgur.com/r5WtQV1.jpg https://i.imgur.com/1LnkP04.jpg 韓国人がマウントのために日本書紀を取り込むのはいいけど
日本人の98%はそもそもそれを読んでいない。興味もない。
朝鮮占領時代に朝鮮人をボコボコに殴りながらそれを丸暗記させたけど
日本ではそんなことはやっていない。
現代でも、朝起きたら、海に武装船が100隻もいたらビビるつーの
倭人の朝鮮人虐めが酷すぎる
新羅本紀
14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。
>>69 四世紀って古墳時代だぞ。
こないだ韓国で見つかった古墳をなんで発掘しない?
>>70 日本書紀なんか読もうにも漢文やから現代の日本人の99.99%は読めん
>>67 たとえばゲルマン人は言語の違うケルト人の領土だったブリテン島を奪って新支配者になったよね
彼らがアングロ・サクソンだ
>>72 日本も畿内の巨大古墳まったく発掘しないじゃん
>>73 漫画に書き起こしても誰も読まない。
限界まで女体化すれば一部のオタクが興味をもつかもな。
いっそガチャゲーにでもするか?
日本ショッキング?とかそんな名前で
>>75 朝鮮側に気を使ってる。
壺を一掃したらやるかもね。
>>71 この続き
西暦14年から何百年も朝鮮人虐めは続き
いよいよ4世紀半ばの総攻撃で、とうとう新羅は植民地となったのであった
新羅本紀
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。さらに追撃し全滅近くまで追い込んだ。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った
>>50 俺は農具よりも
ジャポニカ米の伝来の方を重視している
今の所は長江・東シナ海ルートが最有力だろ?
ジャポニカ米ともに農業技術者集団がやって来た
当時は今よりも平均気温が低いので朝鮮地域は水田に適していないなどからだ
畑作の米は朝鮮地域からだと思ってるよ
ちなみに高句麗の国章は三足烏
https://i.imgur.com/nVzmR7p.jpg あれ...八咫烏くん...パクリ!?
>>79 好太王碑の内容と調和が取れてますな
好太王碑
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
長江流域の稲作文明が入ってきたのは
朝鮮半島から鉄器や馬が入ってくるよりはるかずっと昔やろ
西暦157年ってことは大乱で王が不在だった時期やろ
だいたい鉄器や馬が入ってきたのもその頃やろ
その馬も日本で普及したもんと種類が違うでしょ。
日本にももともと野良馬がいて武士が使ったのはそっち。
黒毛和牛も縄文人の荷役に使われてた。
>>58 一方で神功皇后と仲哀天皇は、半島は宝の山だから九州の熊襲など放っておけと信託を受ける。
>>81 まあ長江からの影響も大きいだろうね
神社の建築様式である神明造(高床式倉庫の発展系)とかそうだけど
渡来人が来る前は酪農もやってて
チーズやヨーグルトが消費されてた。
>>82 よくある誤謬やな
高句麗と倭国の直接の関係は学術的にほぼないといっていい
八咫烏の原型はもっともっとはるかに古い古代中国
それが交易で広い範囲に伝わっただけ
共通祖先があるわけよ
これなんか、ほんとスサノオぽい
喜怒哀楽が激しく、暴れてみたり、母の国に行きたいと泣いてみたり
飽きぽっさが出ている
ちょっくら新羅でも虐めるかと攻め込んだがすぐ飽きて、講和したとこなんかがな
新羅本紀
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
122年 夏四月に都の人々が倭兵が大いに来ると噂して、争って山や谷に遁れたので、王は伊飡翌宗等に命じて諭してこれを止めさせた。
123年 春三月に倭国と講和した。
>>85 日本に馬はいなかったぞ
魏志倭人伝
>其地無牛馬虎豹羊鵲。
>>86 魏志倭人伝にも、辰韓(後の新羅)は鉄が採れるから倭人が買いに来てるって記事があるね
古代の極東アジアは現代人が思うよりはるかに海人族によってグローバル化してるんよ
倭人は高句麗に憧れてたんだろうね
飛鳥時代に貴人が着てた服も高句麗服だったし
論衡(東明王の名前が初出):紀元後1世紀に成立
魏書(東明遠征初出):554年成立
日本書紀(神武東征初出):710年成立
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kl117cr233/20140924/20140924022255.png
>>86 あと日本列島じゃ製鉄やってなかったからね
6世紀にたたら製鉄が発明されるまでは基本半島からインゴット輸入して、国内の鍛冶場で加工するというスタイル
>>81 そんなの証拠になるわけねーだろ馬鹿
気候変動やなにかの事情で耕作されなくなってその土地では絶滅した可能性だってある
>>99 え?どこにいんの?
高句麗と戦うまで騎馬技術持ってなかった後進地域が倭国なんだから騎馬民族征服王朝なんておかしいでしょ
でもこの手の朝鮮の文献って日本でいえば鎌倉時代になってから作られた奴だろ
古事記や日本書紀は奈良時代に作られたってのに
>>69 4世紀後半から5世紀に入っても、倭人の朝鮮人虐めはイケイケドンドンだったが
この事は、4世紀以降、日本列島内の政権が一貫して盤石だった事を示す
新羅本紀
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。
食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
さらに追撃し全滅近くまで追い込んだ。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻めるが勝てず撤退した。新羅王自ら追撃し、倭軍は敗れ三百人が戦死した。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻め百人を捕らえて連れ去った。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站を撃破しようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。
415年 八月、倭人と風島で戦い、勝った。
418年 高句麗への人質(卜好)が堤上奈麻と共に帰った。倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入し奴隷を奪い取って去った。夏六月にまた東の辺境を攻める。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
王は兵を出して追撃しようとした。臣下は「兵法家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と言ったが王はこれを聞き入れなかった。
数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東で合戦したが倭軍に敗れ、将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。
賊がこれを幾重にも囲んだ。突然霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。
賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、進撃して月城を囲んで四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山市)を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。
領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。
476年 夏六月、倭人が東辺を攻める。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を攻める。
486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。
497年 夏四月に倭人が辺境を攻める。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
>>103 倭国大乱の時期に朝鮮の人がコリアンコンクエストして、日本列島で力を溜め4世紀以降本格的に故地を求め再侵攻したんだろうね
朝鮮半島への執着が異常だし
まず朝鮮半島への足がかりを失えば鉄器作れなくなるわけだから(日本で製鉄始まるのは6世紀以降)必死に侵攻するのも理解できる
朝鮮半島からの鉄の供給が当時の倭国の生命線だった
新羅人のまま朝鮮だったら、どんな文化が育ってたんだろうとワクワクする。まさか土人に取って代わられるとは思ってもみなかったろうな。
秀吉が朝鮮出兵で優れた陶工奪ったのと同じ
技術先進地域であり故地でもある朝鮮を欲していたのだろうね
4世紀前半の大和朝廷成立が運の尽きだったな
日本列島に強靱な統一国家が成立し、朝鮮半島攻撃に注力出来たのがデカい
4世紀前半は、国内政治に注力する必要があり、新羅と講話的だったが、345年にいきなり牙をむき始めて宣戦布告した
つまり大和朝廷の成立は345年のちょっと前
新羅本紀
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
>>110 4世紀中盤といえばおそらくちょうど九州生まれの応神天皇が畿内に来たあたりの時期だね
九州勢力と畿内勢力が合併したんだろうな
九州伊都国の平原遺跡で出土した鏡が、天皇家のレガリアである八咫鏡と同型なんだよ面白くね?
じゃあいつヤマトに伊都国の鏡が齎されたんだろう。。。と史書を調べてみたら応神天皇の出生地が筑前国【怡土】郡長野村蚊田なんだわ
https://i.imgur.com/McKXoMM.jpg つまり応神天皇の時代に、九州支配してた伊都國と畿内の邪馬臺國が合併したということでは?政治の中心地も奈良から沿岸の大阪に移行してるしさ
>>113 倭人による連れ去りニダな
捕虜1000人は尋常じゃないが、殆どは女だったのではないかと思われる
新羅本紀
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
連れ去った女とファックしていたのは、男系縄文、女系弥生て証明済
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM3233PCM32PUUB001.html
で朝鮮半島で前方後円墳があるの南西部、つまり馬韓諸国連合があったとこだよな
ここは当時まだ百済も狗邪韓国も新羅も支配してない、弱小国の分立状態で事実上権力空白地帯だったから倭系が進出しやすかったんだろう
>>115 技術者だと思うよ
当時の倭は遅れてたから
>>115 https://i.imgur.com/RL0Gs2l.jpeg 6世紀ですらこれだからね
新羅や百済は中国人と比べても遜色無い文化的な服装、一方で倭人はボロ切れ羽織ってるだけ
この流れ、スピード感がたまらんな
恐らく大和国にある、大和朝廷を成立させた大王墓の主だろうが
娘を寄越せ、臣下の礼を取れと脅しのジャブ
断ってきたら、良かろうと国交断絶
そして、いよいよ攻撃の火蓋が切られた
新羅本紀
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
>>120 ボロ切れ纏った未開で裸足の大群。。。新羅の人達からすればゾンビ攻めてきたみたいな衝撃だったろうね
https://i.imgur.com/RL0Gs2l.jpeg >>1 ユーラシア大陸各地から太陽信仰して東進した人々はだいたい朝鮮半島を通り道としたからな。
物部氏や海部氏は朝鮮を経由せずに船でやってきた。
『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。
百残(百済)新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残(百済)■■(加羅?)■羅(新羅?)以爲臣民
[ 訳 ]百残(百済)・新羅は舊(もと)これ屬民なり。由來朝貢す。而(しか)るに倭は辛卯の年を以って渡海して來り百残(百済)・■■(加羅?)・■羅(新羅?)を破り以って臣民と爲す。
(広開土王陵碑)
→「 もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。 」
>>120 大和国にある、4世紀の200メートル超の大王墓
これが朝鮮人虐めのイジメっ子ですな
墓のデカさが200メートルと恐ろしすぎニダね
渋谷向山古墳
五社神古墳
行燈山古墳
西殿塚古墳
メスリ山古墳
佐紀石塚山古墳
佐紀陵山古墳
桜井茶臼山古墳
築山古墳
巣山古墳
島の山古墳
>>103 それ大夫時代が下ったあとに書かれてものだからな
記述の信憑性に疑いの余地があるぞ
梁書
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。
普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。 「無文字」,刻木為範,言語待百濟而後通
梁書では新羅は5世紀代に漢字を持ってないということになってる
別の文字体系を持っていたことは示唆しているが >刻木為範
>>128 お言葉ですが
全く資料無く、全て創造でコリエイトしたとでも
日本、中国、朝鮮の歴史書を突き合わせれば、内容は調和的だろう
時代を下って成立したものだから研究から排除するのはあかんですな
都合が悪いのは理解しますが
朝鮮の歴史教科書、日本書紀、古事記から色々引用しているようだが
これはホント、これは嘘、こんな事ばかりやっていてはあかんだろう
朝鮮に記録の無い王仁とやらが漢字を日本に伝えたとある、これはほんとニダ
三韓征伐、任那日本府は問答無用に嘘ニダとかな
ユーラシア大陸各地から太陽信仰して東進した人々はだいたい朝鮮半島を通り道としたからな。
物部氏や海部氏は朝鮮を経由せずに船でやってきた。
梁書東夷伝は、高句麗・百済・新羅・倭・文身国・大漢国・扶桑国
↑
九州
倭国はこのころはまだ朝鮮半島南部の国だろ
蘇我氏(倭国酋長)が渡来してきたのが6世紀初頭(西暦500年代始めころ)
その後飛鳥文化が起こるので
太陽と月の力がなくなったって日蝕月蝕のことか。日本にも日食神話はあるが、アマテラスは天の岩戸に隠れるんで、半島にいったりはしなかったねw
>>136 の割には中国日本朝鮮の歴史書どれも言語が倭と同じだとは書かれてないな
同じく支配者層が高句麗人、一般人は韓人だった百済は「言語は高句麗と同じ」と書かれてるけど
>>136 日本がいつできたか知ってるか?
旧唐書には日本と倭は別種と書いてある
西安博物院に保管されている祢軍の墓誌(678年没)に「日本」という文字が見える
おそらく世界初出
>>82 そりゃ八咫烏は3本足じゃないもの、そんな記述微塵もない
あとから中国のカラスの影響で太陽のカラスと同一視されて3本足になっただけ
>>82 高句麗の上層部は日本人なんじゃないかな
あと、日本列島が火山噴火していた時代に日本人たちもユーラシア大陸に避難した。
いつか東の太陽の国に帰ろうと
自分の意志で日本に残ったのに
「ワタシタチハキョウセイイミンサセラレマシタ」てどうせ言うんだろ?w
夫婦揃ってw
由緒正しい王族や貴族層でもないただの海藻取りのおっちゃんおばちゃんを崇めちゃったのが悲しいのう
>>142 そらもともと日本にいた原住民たちは素朴でみんな疑う事のない清い心の持ち主だらけだったからね
そういまのお隣の国の宗教に騙されている日本人たちのように
自分たちが神の使いだの救世主だの自分たちが言うとおりに事をなせばうまくいく幸せになれると
嘘を大声で何回も言うだけで簡単に騙せてしまったのだろうことは
現在の日本を見ても理解できるであろう?
>>138 馬鹿なの?
日本列島から渡ったという意味だよ
認めたくない気持ちはわかるけどさあ
>>137 王と民が別の言葉を使うのは不思議ではない
>>142 でも実際は太陽神だったんだろ
さすが凄腕シャーマンがいた日本は見抜いた日本すごい
弥生人が朝鮮半島南部から九州に渡るにあたって移民船団を作る漁村群が必要不可欠
その漁村群が倭だろう
さて弥生人が全員が全員、植民のため日本列島渡ったかというとそうは思わない朝鮮半島南部沿岸の漁村群に残漁村維持した弥生人もいるだろう
だから朝鮮半島南部に倭があって日本列島に植民した倭が並立していても何も矛盾はない
近畿あたりに降り立った朝鮮人が縄文人を北と南に追いやって大和朝廷作ったんでしょ?
みんな知ってるけどわざわざ言わんよ昔のことだ
>>130 三韓征伐=三韓平定とかホラッチョに決まってるじゃん
じゃあ何で朝鮮半島は日本じゃないんだ?
三韓侵入くらいが関の山だろ
で、広開土王にボコボコにされたんだよ
>>149 拓本の改ざん無しと確定した
諦めろ
好太王碑
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
>>137 自分で言っとるがな
新羅本紀
57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
(注:前漢・後漢の1里は415.8mなので、一千里は415.8kmとなる。)
古代から倭人が朝鮮半島を支配していたんだから韓国併合を謝罪する必要はないってことじゃん
壺サヨはどうすんの?
そもそも併合は朝鮮側から頼んだ事であり、それを世界も歓迎した合法的な話で、謝罪云々は一切要らない
掛けてやる言葉があるとしたら、自国が不甲斐なくて悔しいだろうが忘れろだ
普通に朝鮮半島から渡ってきた連中が元々日本にいた倭人を北東へ北東へ追いやって
建国したのが日本だろ?
だから東北は鬼門で忌み嫌ってるけれど
東北やアイヌの文化や風習や言葉なんてどうみても倭人の頃の面影があるじゃん?
入れ墨文化とかさw
>>157 新羅本紀に重要な一文がある
新羅本紀
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
大陸、半島らしく、伝統的海に苦手意識ある
百済が攻め込んで来るのを警戒している
大前提、朝鮮半島が統一してなきゃ、海を渡って進出とか考えてもいない
これは百済も同じ
願望、ファンタジーはいい加減止めろ
>>158 願望?ふふふ違うな
真実はいつも受け入れがたいものだよw
我が国を乗っ取っていった方法はなにも武力ではないだろうさ
支配者層にうまく取り入り偽(いつわり)の宗教で洗脳して
自分たちに都合の良い政治体制や支配体制をやらせる
あれこれ現代でも当てはまるんじゃ…
普通に考えたら国土の広さといい人口といい普通にやったら
日本列島が朝鮮半島の連中に負けるはずがないのよ
でも負けないのは武力衝突での話であって
裏工作や賄賂や洗脳という手段を用いれば話はちょっと変わってくるんだよ
なんで日本史がある時以前のものが全く残っていないのか?
文字が存在していない?そんなわけあるかw
それこそ誰かが意図的に隠滅しない限りそんなことは起こりえないよ
アメリカ大陸のインディアンと白人みたいなもんだよね
日本列島土人は国を造るほどの文化レベルがなかったから渡来人にグイグイおしのけられて渡来人が国を造った
出雲とか吉備とか神話のレベルですでに渡来人
まあどう考えてもイギリスとフランスみたいな感じに大陸の地方勢力が島に進出して、そのまま軸足が島の方に移って本土から追い出されたパターンだよね
でぇじょうぶだ!
渡ってきたのは今の朝鮮人とは無関係のヒトだ
>>164 文字の発明って文明段階がかなり進まないと起きないけど
当時は今の国境や民族はないぞ
筑紫人=南韓国人
薩摩隼人や肥の熊襲=外人さん
>>168 文明あったはずなのに残ってないからなあ
日本書紀も古事記も8世紀だよ
遅すぎる
>>164 太平洋を囲むように文字を持たない
グループってのがいたのよ。
アイヌ、縄文人、ポリネシア、インディアン、
南米インディオ、etcetc
このグループは工芸品を作ることで
情報のやり取りをした。全員親戚。
アイヌは渡来人が殺しまくった縄文人の生き残りだから
アイヌ文化という形でその痕跡は残っている。
渡来人は6世紀から700年くらい
東北で戦争してる。
>>164 紀記以外の古史古伝は検証すら必要ないぞ
歯向かうなら学会から追放な
ああだから俺チョンコ天皇嫌いだったんだな
日本人チョンコ外人殺した償いまだか
当然、高句麗のほうが数百年前にできてますしね。
ここでウヨ側の反論はチュモンの神話が見つかった書物は
後年のものだって話ね。
つまり「チュモン神話はあとから日本のをパクったんだ」て言うわけ。
それはあり得ないんだよね。本当にパクるなら、中華文明の神話をパクるはずだからね。
つまり、もともと、朝鮮半島に伝わってた神話と、日本神話は同じだったわけ
渡来人くるまで1㍉も進歩せずずっとどんぐりくってウホウホ言ってだけだからな
>>181 だよな
そもそも人間の歴史が中華のほうが古いもんね
神武天皇よりずっと古い
>>184 高句麗は紀元前一世紀やで
まぁ紀元0年あたりが実際やな
日本国の誕生は4世紀が精々だな
倭人縄文人はいただろうけど
>>183 済州島民は1948年に
韓国政府によりジェノサイドしてる。
その殺され損ないを日本で匿ってるのが
日本の在日の一部。
1948年当時の済州島は
パヨクの巣窟で、朝鮮戦争に反対していた。
それに対してアメリカがなんとかしろと指示を出したところ
韓国大統領が韓国軍を送り込んで殺し始めた。
>>144 あの前方後円墳のこといってんのか
5世紀台のほんの短い一時期で消えてるぞ
しかも現地の四方墳より被葬品がしょぼい
あれは現地酋長(四方墳被葬者)が百済や新羅の南下を防ぐために呼び込んだだけだろ^^
>>190 俺は日本のも朝鮮のも中東の人間が
埋葬されてるんじゃないかと考えてる。
弥生お笑い装備が4世紀に中東準拠の
最新型に変わってるからな。
4世紀の朝鮮からは中東装備は出土していない。
太刀に相当する刃物もな。
どっちも当時の中東の最新型。
倭の五王も比定できてないのに倭を日本列島にあったと考えてるやつは馬鹿
山形明郷
中国の学者楊守啓氏がいうには、「朝鮮側の史料『東鑑( 東国通鑑) 』では詳らかではないが、
日本の史書から判断すると、高句麗広開土王即位の年は西暦3 9 1 年であり、日本では仁徳天皇の治世時に当たる。
しかし、この間、両国には抗争の事実はみられず、又、中間の履中・允恭両天皇の時代にも、高句麗・新羅と闘争の事実はない。
又、三宅米吉氏も『高麗碑考』の中で同様のことを語っている。即ち、「倭・倭人と高麗との抗争記述も、
『日本書紀』など日本側の記述に対応すべきものがなければ、強いて附会する必要はなかろう。
碑文中に現れる倭が、大和朝廷で在ることを明証した論考は現れていないのである」との見解を述べている。
倭や邪馬台が何処であろうと、我が国の古代史に繋がることではないので、
目角を立て附会曲解をする必要ないこと、論ずるまでもない。
「倭」そのものゝ総体的な輪郭が把握できず、「邪馬台」が「大和朝廷」の前身などという固定観念で、
これら倭人に関する伝記などを捏ねくり返してみたところで、
先人の糟粕を舐め啜るのが落ちであろう。
日本人と韓国人の顔が似すぎだからもう答えは分かりきってる
ネトウヨでさえ日本人と韓国人の顔を当てられない
古墳時代の話をさせてもらうと
日本は母系社会だからな
なんたって被葬者が母親の係累で埋葬されている
それが変わったのが飛鳥文化以降笑
>>195 ?
実際、そういう神話があるのは事実だけど?
>>197 神話の存在について今は問うてない
内容が同じというソースに素人アフィブログ画像使うのがしょぼすぎると言ってる
この画像作った奴のサイトを読んだことはあるかいw?
>>194 日帝支配時代にスナック感覚で
レイプしまくってる。コンドームなしでな。
>>198 そんなことまでイチイチ考えて無いよ
神話のわかりやすい画像だから使い続けるだけ
アフィ叩きかい?
そんじゃimgurに貼りなおすよ?
でたらめのblogでそんな神話は存在しない→「アフィblogをソースにするな!」→わかる
神話の存在は認めている→「アフィblogをソースにするな!」→めんどくさい
ただこれだけ。
>>200 いやそんなんどうでもいいからw
その画像が「在野の熱心な歴史研究家」の成果じゃなくて
オカルト素人が共通点を言い立てるために要素を無理くり結びつけて作って馬鹿資料で何の価値も無いどころかゴミ
って言ってんの
だから元サイトを実際に見てみるといいよとアドバイスしたわけ
>>202 あれ?神話の存在は認めて無いのかな?
「問うてない」とか「どうでもいい」じゃなくて
まずはそこはっきりさせないと話が進まないけど
そもそも高句麗建国神話なるものが
神武天皇東征譚をパクって作られたんだからそりゃ似てるわなという(笑)
そもそも神道の教育を受けたのが日帝支配時代の老人だけ。
その大日本帝国がやった教育は朝鮮人を特攻隊員に
するためのもの。
その気にさせるためにはどんな嘘もつく。
かなりの数の朝鮮人が騙されて死んでいった。
小隊における会話。
日本国籍三等兵「よっスサノオ、あのトーチカ破壊してきてくれ。この対戦車地雷持って飛び込むだけでOK」
朝鮮国籍四等兵「よせやい照れるだろ。よーし」ドカーン
残念だが宗主国様の属国担った時点でこの手のネタ全部自主廃棄しているからこれも捏造なんだよなあ
『大倭神社註進状』では、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命・少彦名命を祀るとするとともに、これらの神は素戔嗚尊の子孫であり疫から守る神であるとしている
>韓神社は大己貴命・少彦名命祀る
>>91 お前らが馬鹿にするポニーと黒毛和牛はどっからきたんだよ。
渡来人が来る前から縄文人は酪農をやってるぞ。
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨
スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨(ソシモリ)に居た。
>>210 古墳期に輸入したのが定説だろ馬鹿
日本在来馬の起源は、古墳時代に国家方針として軍馬・家畜馬として、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬(モウコウマ)にある[
高句麗は結構だが
安岳3号墳
高句麗古墳群で唯一銘がある
高句麗古墳最大の墓室面積
銘文によって墓の築造年代が357年頃
墓主は中国人の前燕の武将・冬寿
北朝鮮は情けなくならんのかいな
銘でバレてな
扶余の祭祀に五穀豊穣を願って鬼神を祀るとあるけど
オオゲツヒメとスサノオの逸話を彷彿とさせる
古墳と同時に馬具も出土し始めるからな
馬をもっと前から使ってたなら馬具が出てこないのはおかしい
>>213 じゃあ今の朝鮮にはなんでどっちもいないんだ?
蒙古馬はユーラシアを支配した史上最強の馬だぞ?
戦国ボニーを馬鹿にしてるのは韓国人自身だろ?
その話が本当なら史上最強のモンゴル馬と
日本の戦国馬は同じ品種だろ?
「大ざっぱにいうと、大半の古墳人は、渡来系弥生人と古墳時代以後の日本人に類似する特徴を多かれ少なかれ持っている。
たとえば、古墳人の頭蓋・四肢骨の計測値は、ほとんどすべて縄文人と現代人の中間に入るが、鼻根湾曲示数・歯槽側面角・大腿骨の中央横断示数・身長などでは縄文人より現代人に類似する。
池田次郎『日本人のきた道』(朝日新聞社、1998)278頁から)
さらに池田は、頭蓋計測値を基に列島を9地域に分けて、その地域性を述べる。
その際、古墳人の集団を三群にわけている。
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
池田が扱った古墳人の資料は大半が5世紀以降のもの
>>205 いや逆逆w
日本神話は高句麗神話の600年後
【高句麗】
論衡(東明王の名前が初出):紀元後1世紀に成立
魏書(東明遠征初出):554年成立
【日本】
日本書紀(神武東征初出):710年成立
>>205 無知はネトウヨの始まりだね
>>217 ちょっと何言ってるかわからん
どっちもないって一体何を指してるんだ?
>>222 今の朝鮮にはデカくて立派な馬しかいないだろ?
世界最強の蒙古馬はどこにやったのよ。
日本は木曽馬という形でまだ品種を残してる。
現役で農耕をやってるよ。
あとは黒毛和牛な。
韓牛の登場は宮崎口蹄疫連続精子冷凍庫破壊事件の
あとだろ?2010年代以降の話。
>>220 魏書に東征伝説なんか書かれてない
知ってるくせに
>>26 村同士の喧嘩に殺しを持ち込んだんだろうな
そらそうだろ
先進国に近かった朝鮮のほうが進んでたに決まってる
アホでもわかる話
日本のもともとの「超存在」は主(ヌシ)で
渡来系が来て神(カミ)になったとかも面白いよね
国津神・天津神とかもそうだし
まぁ結局、大和王朝は朝鮮半島からの制服王朝だよなあ
>>223 何を言ってるんだ?
品種改良や地域性無視したこと言ってんじゃないよ馬鹿
おまえ国産のクワガタとかも地域性があるって知らない馬鹿か?
NGっと
>>230 但馬辺りに縁がある倭人系王の王子な
だから縁ある但馬に足跡が残る
『三国史記』によると新羅の祖の赫居世居西干は異国人
『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄である稻飯命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
『三国史記』によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は倭人
『三国遺事』によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
『古事記』『日本書紀』によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
『三国史記』によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は倭人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたり)
『三国史記』によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(おそらく金氏も倭人)
>>10 日本語の固有語と韓国語のそれは似ていない
これはどう説明するんだ
古墳時代が始まるまで酸性土壌の日本では縄文時代はいわずもがな、弥生時代は支石墓(ドルメン)の普及していた北九州
後は洞窟遺跡に少数ぐらいしかまともな骨が残っていない
ちなみに佐賀大友弥生人、福岡新町弥生人は縄文ゲノム100%だった
https://i.imgur.com/dTRpOwU.png 日本の神話でも知ってる人は少ないのに何で古代朝鮮神話に異様に詳しいんだよ
確たる証拠もないし妄想の域を超えない
これが通るなら古代朝鮮人は古代中国人だし元はローマ人でアフリカ人だろ
昔、貿易してたら地元住民と結婚したり勤めるとか当たり前だしなあ
有名人は朝鮮人だったあの文化のもとは朝鮮の物だったとか視点が狭すぎてクソ笑えるわ
朝鮮から渡ってきた大和朝廷に日本が征服されたのを
弥生人って言葉遊びで誤魔化してるだけだもんな
>>236 九州の熊襲は大和朝廷の支配を受け入れて隼人族として生き残ってるからな
>>233 日本語と韓国語ってそっくりな言葉だらけだぞw
民族 “ミンジョク”
家族 “カジョク”
教室 “キョシル”
教授 “キョス”
雇用 “コヨン”
約束 “ヤクソク”
分野 “ブンヤ”
余裕 “ヨユ”
知恵 “チヘ”
遅刻 “チカク”
>>240 漢字混じりハングルを発明したのは日本人。
朝鮮を占領してた時に、韓国の公用語を
カタカナにするために、棍棒で殴りながら
教育してたんだけど途中で戦争が始まって
そこまでで終わってる。
ジャップ天皇も朝鮮人だし、
短歌詩人の韓国人が「ジャップ短歌の起源は韓国だし、京都文化も百済の貴族が作った」とか言ってたのも本当なんだろうねww
俺たちジャップは全員統一信者になってムジョッコンで朝鮮人様の奴隷にならないといけないよねww
朝鮮占領時は女は13歳になったらレイプ。
壊れるまで朝も昼も穴という穴を犯し続ける。
二十歳になる頃には日本兵の子供を十人は産んでいる。
だから日本人と韓国人はそっくり。
>>243 上田 正昭先生(京都大学名誉教授)
「京都のなかには百済王族の百済王氏・新羅系の秦氏や高句麗系の高麗氏など、朝鮮文化ゆかりの社寺や史跡がかなりあります。
京都の古代史は朝鮮半島ゆかりの氏族を抜きに語ることはできません。」
>>245 でっていう
壺から切り離して考えろよアホ
周辺王家の出自を詳細に記録する中国の歴史書では、倭国の王は一貫して倭人めしくは倭種
朝鮮の歴史書にある倭人の出自に関する記録は、中国の歴史書に倭人は呉の太伯の子孫らしい、と書いてあるだけ
日本の歴史書も、倭国の王が中国や朝鮮出自とは一切書いてない
いい加減、ファンタジーは止めろ
だが、新羅の歴史書には王の出自が倭人だと書かれちゃってんだよ
これだけは諦めて、認めろ
新羅本紀
57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
(注:前漢・後漢の1里は415.8mなので、一千里は415.8kmとなる。)
>>60 同化も何も縄文人そのものなんだよなぁ
大和民族は韓国人と同じ人種だけど
>>233 結構似てるぞ。勿論漢字語ではなく固有語
古代においてはイントネーションはもっと似ていたという
異世界というか新天地で現地土人相手に無双して出世できるってのは日本人のルーツなんやね
アイヌはロシア経由ってことにして
そのルートに朝鮮族を乗っけようとしてるから
キモい感じになる。
学名はアボリジナルジャパニーズ。
ニュージーランド原住民の親戚。
倭は元々長江付近の百越族の一つを指していた
時代が下るに従って倭という名の民族の位置が北上し朝鮮半島付近に至り最終的に日本列島の民族を指すようになる
これは稲作が南方が伝わったという説と朝鮮半島から伝わったという説を矛盾なく整合する点でも興味深い
>>254 大陸を圧倒した島国は日本だけじゃないか
400年かけて、とうとう朝鮮は屈服した
新羅本紀
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。
食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。
364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
さらに追撃し全滅近くまで追い込んだ。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
好太王碑
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
14年の攻撃は、事実上初めての大規模攻撃と言えるが、その約400年後、とうとう朝鮮人は完全に屈服した
14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
>>256 一流考古学者「倭人はワイ人です」
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1578121854/ 音韻学
From the phonetic material in the ancient literatures, the words, Wa and Wai,
both do not have the initial of the syllable(影母). The final of the syllable of Wa is
pronounced as [iuai] ( the final of the syllable of Wa belongs to the Ge(歌部) in the
ancient Chinese phonetics) , and is pronounced as ヮ(Wa) in the Chinese characters
in the Japanese. The final of the syllable of Wai is pronounced as [iuat] ( the final of
the syllable of Wai belongs to the Yue(月部) in the ancient Chinese phonetics), and is
pronounced as ヮィ(Wai) in the Chinese characters in the Japanese. Thus, in the
ancient phonology, the initials of the syllable of Wa and Wai are same, and their finals
of the syllable can be changed to each other.
关于古代日本的倭人,中国学者研究的并不多。一些研究者往往只是根据古
代文献中的只言片语或零星的考古资料,就把倭人及其文化的来源简单的与中国
大陆联系起来。日本学者对这方面的研究非常重视,但也往往由于民族情感的限
制,不能客观地进行讨论。所以,至今为止,倭人及其文化的来源,仍然是一个
尚未解决的课题。1996 年至1999 年,笔者对东北亚地区青铜时代的考古学文化
进行了初步的系统研究,并在日本出版《东北亚的青铜文化》一书1。在以往研
究的基础上,笔者拟以考古资料为基础,加之以对不同时期文献的考证,分别对
濊人与貊人、濊人与倭人等古代东北亚地区的人类集团及其源流关系进行系统研
究。
《山海经・海内北经》、《后汉书・鲜卑传》、《论衡》等古代文献中,都有关
于古代倭或倭人的记载,不少学者的研究都将其与日本列岛的古代倭人直接联系
起来。但从这些文献中所记载的倭的情况来看,他们并不是生活在日本列岛的倭
人,而应该是生活在辽东、吉长、长白山周围地区和朝鲜半岛的古代濊人。
訳
ワイ【さんずいに歳】人と倭人 西北大学考古学部 王建新
中国の学者は古代日本の倭人についてあまり研究していません。
一部の研究者は、古代文書の単なるフレーズや散らばった考古学的資料に基づいて、
倭の人々とその文化的起源を中国本土と単純に関連付けることがよくあります。
日本の学者はこの分野の研究を非常に重視していますが、国民感情よって制限されるため客観的に議論することはできません。
これまでのところ、それら古代の人々(倭人など)と彼らの文化の起源は未解決の問題です。
1996年から1999年にかけて、著者は北東アジアの青銅器時代の考古学的文化に関する予備的な体系的研究を実施し、
日本で「北東アジアの青銅文化」という本を出版しました[1]。
著者は、以前の研究を基礎に考古学的資料に基づいて仮説をたて、さらに、異なる時代の文献に関する研究を加え、
それぞれ、ワイ人と貊人、ワイ人と倭人などの古代北東アジアの人類集団とその関係を体系的に分析しました。
「山海經・海内北經」、「後漢書・鮮卑伝」、「論衡」などの古代文献には、古代倭または倭人に関する記録があり、
多くの学者がそれらを日本列島の古代倭人として直接関連づけて研究しています。
しかし、これらの文書に記録されている倭の状況から判断すると、彼らは日本列島に住んでいる倭人ではなく、
遼東、吉昌、長白山周辺地区及び朝鮮半島北部に住んでいた古代ワイ【さんずいに歳】人です。
ワッチョイ 03af-jfY0
テテンテンテン MMb6-y47Y
嫌儲のデマ製造機ね
書き込みに特徴があるから憶えておいてね
朝鮮半島から渡ってきた渡来人が当時の日本人(倭人)より進んだ文明と知識と技術を持っていた
と聞いてお隣の人がホルホルしそうな話だけれども
よくよく聞いてみると当時朝鮮半島に移住してきた中東あたりをルーツとする中国に移住してた一族か集団が
朝鮮半島にも来ていてそれが日本にも来たて話らしいね
だからお隣の国の人がホルホルする要素が見当たらないw
そんな裏付けが取れない話は良い
最近、武寧王陵近くの墓で、このレンガは南京人が作ったと刻まれたレンガが発見された
武寧王陵は、まんま中国南朝様式の墓と知られるが
このレンガの発見で、百済王家の墓は中国人が作ったと裏付けられた
つまり古代、朝鮮人は何ら技術は持たず、持っていたのは中国人だったんだよ
>>10 桓武天皇の母親が百済の王族出身ってだけだよね
>>259 渡来してきた倭人(いわゆる弥生人)は江蘇省の呉人とDNAも一致してる
いくつもの記録に出て来る「自ら(呉の)太伯の後裔と云う」などの記述とも合致する
もうほぼ答えは出てる。倭人のルーツは長江。少しずつ北上して日本列島に渡ったということ
>>13 日本人と朝鮮人は母方の遺伝子はほぼ同じだけど父方の遺伝子は全然違うらしいよ
元は同じ民族だったかもしれないが侵略されて男を皆殺しにされたのが朝鮮人だろう、日本人は島国だから難を逃れた。
>>263 段階飛ばして結論書いてるやつは裏付けないのとかわらなくね
1970年代に作られた朝鮮古代神話。
韓国の偽史運動ほど間抜けなファンタジーもない
>>35 デタラメ言うなよ!モンゴル人に男を皆殺しにされてレイプされまくった結果が現在の朝鮮人だよ
>>267 何回も説明しているだろう
朝鮮人の連れ去りは、女をさらうのが目的で
縄文人がファックした
その裏付けが、鳥取の青谷上寺地遺跡の調査で判明した
結果は、男系縄文、女系弥生
新羅本紀
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
鳥取)縄文人系のDNA配列を確認 青谷で出土の人骨
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM3233PCM32PUUB001.html 百済と新羅は日本のパシリでした。
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。
>>55 朝鮮人が太平洋戦争の時に徴兵された期間は日本人と比べて短いし徴兵開始も随分と遅かったろ日本人男性が戦場で戦っていた時、朝鮮人は徴用労働された、けっして朝鮮人を矢面に立たせて戦わせたわけではない
> 渡来してきた倭人(いわゆる弥生人)は江蘇省の呉人とDNAも一致してる
> いくつもの記録に出て来る「自ら(呉の)太伯の後裔と云う」などの記述とも合致する
> もうほぼ答えは出てる。倭人のルーツは長江。少しずつ北上して日本列島に渡ったということ
キチガイを一応論破しておく
呉の文物を一切携えずに渡来してきるのか?www
その時代、日本に呉の文化、建築技術、農業などは一切伝播してない
はい、論破w
>>274 洗脳途中の戦闘の激化でそうなっただけの話。
このときの朝鮮総督府の嘘800が
>>1みたいな神道ベースの一神教カルトを生んだ。
ネトウヨがよくDNAがーと言ってるが
日本の土は酸性で骨のからサンプルのリボ核酸をとるのはほとんど奇跡にちかい
貝塚なんかのアルカリ性で中和されているような場所にでも埋葬されていない限りw
だから比較的壊れにくいミトコンドリアDNAくらいしか拾えないw
>>113縄文時代は栗を集落の周りに植林して重要な食料源だったってNHKの歴史番組で観たよ
>>207日本陸軍に三等兵とか四等兵なんていなかったろ、朝鮮人は息をする様に嘘をつくって本当だな
>>280 青谷上寺地遺跡から、弥生人の脳みそが出土した
そいつの遺伝子を検査したら、結果は男系縄文、女系弥生
諦めろ
発掘された人骨のうち、3個体の頭蓋骨に当時の人の脳が残されていることがわかり(弥生人の脳は国内で初めての発見)、採取したDNAを元に弥生人の顔を国立科学博物館などの研究グループが復元(復顔像を制作したのは、このうちの1個体で、大人の男性)。
ミトコンドリアDNAの分析により、弥生人の父親は以前から日本列島にいた縄文系、母親は大陸からの渡来系だとみられ、本人はやせ型で髪の毛が太いことが判明しています。
女だけがディスカバリーに来ることはないから
縄文の連中が半島まででかけて拐ってきたと。
原点が11世紀までしか遡れない上に日本書紀から思いっきりパクってる朝鮮神話が何だって?
縄文人でも、海沿い住んでいた奴らは、普通に舟を操り、その骨は江戸期の日本人の骨より太かった
https://www.asahi.com/sp/articles/photo/AS20180827004289.html 保美貝塚は縄文後晩期の時代なんだが
縄文人でも、海沿いに住んでいた縄文人の末裔が、弥生期に舟を操り朝鮮半島で暴れまくったわけだな
暴れまくるには、女の連れ去りもあり、その連れ去りが縄文系と弥生系の交配を促した
>>289 船自体は縄文人のお父さんの台湾原住民に教わったもの。
このお父さんは土器の表面に竹べらで幾何学模様を書くのが得意なんだけど
不器用な縄文人は真似できずに縄の模様を押し付けた。
https://live.staticflickr.com/4088/4848262646_2afba2cd88_b.jpg >>210 > 渡来人が来る前から縄文人は酪農をやってるぞ。
なんかすげぇのがいるなw
縄文人が酪農?
完全にあたまがおかしい
>>291 醍醐味の語源を調べてみ?
蘇というチーズを税金代わりに物納できた時代もあった。
渡来人がここらの文化を破壊。
一般社団法人 日本乳容器・機器協会
> 日本における家畜牛の誕生
> 古代日本の牛乳利用を語るには、まず古代日本の牛について説明する
> 必要がある。考古学的には日本における牛の存在は数万年前の旧石器時代まで
> 遡ることが出来る。岩手県一関市の金流川(きんりゅうがわ)流域で発見された
> 出土品の中に多量の牛骨化石が含まれており、これらは野牛や原牛の骨であると
> されている。しかし、これらの化石牛は日本列島が南北で大陸と陸続きであった
> 洪積世末期に相当することから古代日本で役用や食用に供された家畜牛とは
> 同一の種類は考えられていない。
> 日本における家畜牛の誕生は、縄文中期以降の遺跡から発見される骨こそが
> 家畜牛のものであると推定されており、今日における和牛の祖牛と云われている。
> しかし、縄文中期以降に飼育されていた和牛はもっぱら労役用、肉用であり、
> 乳そのものを飲用に供することはなかったようである。
https://www.namp.or.jp/column19.html >>293 聖徳太子の時代にはもう醍醐は
言葉では表現しようのないとてつもなく美味かったものってことになってる。
この時点でもう製法が失われてる。
このIDの人のレスは
>>121 >>1の話のふりにあっていてすっごく面白い
>>294 > 乳そのものを飲用に供することはなかったようである。
ばーか
まじかよ、おれ韓国人だったのかよ
でも身体的特徴が日本人と韓国人って結構違わないか?
韓国人のが明らかに身体が大きい
2000年で差がついた?
そしてそもそも上の方で渡来人が来るまで牛馬が日本にいなかったって
文献をドヤ顔で貼ってるやつがいたけど縄文時代から黒毛和牛がいるよね。
>>299 縄文時代に酪農があったなんて
妄想しているおまえが
そんな奴のことばかにしても
バカがバカを笑っているだけだろw
ばーか
古代の船は遠洋の高波越えられなくて日本からの朝貢も中国からの使者も朝鮮半島経由してたからな
弥生人は普通に考えて朝鮮人なんだよな
中国人の集団が朝鮮経由して日本に渡ったとしても案内人や朝鮮半島からの物資の輸送で朝鮮人が多く混じってただろうし
ちなみに醍醐といえば天皇の名前になるくらい重要な食物。
文字を持たない縄文人の産物だからどこにもレシピが残ってない。
渡来人が持ってきたもんなら母国に記録が残るでしょ。
そういったもんが一切ない。
醍醐の前段階の蘇に関しては製法を体系化して西暦1000年頃までは作られていたそうな。
醍醐天皇 885~
後醍醐天皇 1288~
どっちも謎の食い物の名前。
この天皇の名前のルーツが朝鮮にあれば兄さん確定なんだが
そんなものは存在しない。
モンゴルにそれっぽいものがあるという話も。
>>301 逆
新羅本紀
14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。
兵船百余隻
新羅本紀
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
大陸、半島らしく、伝統的海に苦手意識ある
>>306 その倭人が加羅の倭人たちであった可能性はどこに消えたんですか?
倭人は簡単に1000人の捕虜を移送していたが
一方、いい加減怒った新羅が、海を渡って攻め込むと考えだが、海は苦手だから止めて置こうだ
ココで重要なのが、恐らく新羅は、295年時点で、今まで一度も、海を渡って日本列島に攻め込んだ事が無いと言う事だ
新羅本紀
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
新羅本紀
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
弥生人が朝鮮人じゃないの根拠は朝鮮より日本の方が水田稲作が早かったってだけだからな
米は熱帯原産だから朝鮮半島より南で暖かい九州で先に根付くのは当たり前のことなのに
朝鮮に水田稲作が伝来しても寒くて育たなかっただけ
古い水田跡が見つからないからって伝来しなかったわけじゃない
米は品種改良されて寒さに強くなって水田は北上していった
12世紀だか13世紀だかに書かれた信憑性が無い本に書かれていた記述だからな
いやー古代朝鮮と古代日本の関係性って、浪漫がありますねぇ(ここでネトウヨ激怒)
対馬から対馬海峡越しに望んだ「釜山花火祭り」。
手前は対馬最北端の海栗島にある航空自衛隊のレーダー基地
https://i.imgur.com/lJGfbFU.jpg 朝鮮半島決め打ちで航海して少しでも海流に流されたら死亡確定なのよ。
その時点で再上陸可能地点は蝦夷地しか無いわけだから。
蝦夷とヤマトは700年にも及ぶ死闘の最中。
そして航海の目的地は山東半島の上の長安なんだから
最初から船で山東半島を目指すのが一番コスパが高い。
>>310 その手の話で必ず問題になるのが
朝鮮半島の倭人
任那の名は日本書紀にも多く出現するぐらいで
任那日本府として半島南部を支配していたとの意で間違いなく記述されている
任那加羅の名も中国と半島の文献に出で来る
そこから抑えないとそういうのはいくらレスしても何の意味もないよ
元々中国憎しで編纂したところあるから設定に穴が多いんですよね
俺たちは独自文化を持ってるんだぞー漢字でも書くから読めよーってなもんだ
>>311 朝鮮人の定義にもよるし
古墳人を弥生人に含めるかどうかにもよる
し
>>240 韓国発の日本オーディション番組で受かった子たちがカジョクのお陰連呼してたけど
どっかの訛りかと思ってたわ
>>10 別にネトウヨじゃないけど稲作を伝えたのが朝鮮人というのは何重にも否定されてるし
朝鮮半島経由、黄海朝鮮半島経由説自体が無理があるというのがコンセンサスになりつつある
>>317 百済と共に海を渡ってと言ってんだが
新羅本紀
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた
やっぱ
>>3この
ニギハヤヒの話は最高に面白いね
なんつったって神武より先に大和にいたって
記紀に書いてんだしw
日本の古代史論争って稲作が物凄い足を引っ張っていて他の文化は伝わっていても
北陸だろうが当時のゴミ稲で農業してるかどうかってだけで縄文扱いしてんの
その結果がどの国も加工してすら買ってくれないジャポニカ米の在庫山積みなんだからもう笑えもしない
>>329 その解釈だと渡来人は稲作を持ち込んでないことになるね。
>>326 古代沿岸航法における「海を渡る」って意味を
君は
「百済が対馬を経由して北部九州に行って倭を討ちたい」としたと捉えたわけね
しかし百済から新羅ってのは
こうなの
https://i.imgur.com/Zc23heY.jpg わかった?
>>121 逆に言うと、これに征服されるって弱すぎだろ
古墳時代の兵でもこれよりまともな服装だと思うが
>>331 素直に読み取れよ
加羅か伽耶か任那か知らんが、陸地で接した隣国
記事から、陸地でも攻め込む事が出来る隣国を攻撃するニュアンスに読み取れんだろう
新羅本紀
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
陸地で接した隣国を攻撃するのが、何で冒険的な遠征なんだよ
>>245 それってベトナム戦争後のボートピープル(難民)と同じじゃん
ニギハヤヒ=大物主の家系は
長江流域がルーツの一族だろう
香取海に新しい長江文明を作ろうとしてた形跡が垣間見える
https://i.imgur.com/T9SjtWH.jpg わかんなかったみたいなんで
もっと古代沿岸航法をわかりやすく
https://i.imgur.com/WXQEWVr.jpg 対馬が倭国への入り口
そこを目視できるのは今の釜山港で
ここらへんは百済の領地ではないのは確定している
加羅もしくは任那が対馬への沿岸航法の入り口となる
海路を支配していたと考えるのが
極めて自然なんだ
だからこのあたりの航路は極めて重要で
好太王碑を読み解くときも
必ず任那加羅を倭人の国として捉えるか
また倭国として捉えるかで大きく変わってくるのは当たり前の話
出で来る倭を全て北部九州と捉えていたら
おかしなことがいくつも出てくる
>>312 中国南朝の記紀、古事記や日本書紀からの借用もしてるんだろうな
>>333 こうね
>>336 君無理
基本が全くできてない
君の意見には何の価値もない
>>338 お前が言っている事はこうも間抜けだ
新羅を関東、百済を関西、任那が愛知とする
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、
関東は関西と共に謀って、海を渡り、愛知を討ちたい
われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
関東は海戦に不慣れである、冒険的な遠征をすれば不測の危険がある
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
それもそうだ、じゃねーよ
東海道で攻め込めよ
こいつも
>>340 縄文人が酪農やっていたとか
知れーっと語ってそれを指摘されても全く修正せずに
意固地になって妄想垂れ流した時点で
レスには何ら考古学の価値はないから
あぼーん処理でいいよ
こいつも妄想し始めたんで
>>341 あぼーんで
これで
>>1に即した綺麗なスレになるよ
>>339 だからそれが何なんだって話。
天皇が神だとしても八百万の一柱だぜ。
自然界に無限にいる神の中の一つにすぎない。
一神教のものさしで日本の宗教を見るから何も理解できないんだよ。
>>342 俺が話しかけてる相手は
このスレが韓国アフィに転載されて
あっちで翻訳されたこのスレを見る韓国人だ。
>>284 おまえが勝手に言ってるだけろw
YハプロがD系統だからといって縄文人の子孫とは限らない
渡来人の可能性だってあるぞ馬鹿^^
(縄文人とは縄文文化の担い手)
しかも実際の縄文人のハプロはこれw
https://i.imgur.com/xDNnCf4.jpg >>298 肉食してこなかったのは大きい
あと従兄弟婚みたいな近親相姦
江戸時代には移動の自由が無くなって、結果的に近親相姦やらざるを得なくなったんだと思う
江戸時代で平均身長が5センチ下がるのはそのせい
>>343 論破されて、その態度は何だ
頭が悪いチンパンジー
新羅が倭国、倭と言った場合、それが日本列島の倭を指すのは明白
大昔から
57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
多婆那国が何処か言ってみろよ
どう考えても丹波だろう
>>240はネタなのにマジレスしてるのが複数いて怖い
>>298 今韓国にいる連中は元寇の時にモンゴル人に入れ替わってる。
モンゴル人は韓国を支配したあとあそこで200年も過ごしてる。
こいつらをマッシュヘアに変えて化粧した姿を想像してみ?
https://i.pinimg.com/originals/18/9a/9e/189a9e84452869f00b22f6eb5a3acdf5.jpg 4,200年前:気候の寒冷化→乾燥化
→徐々に様々な部族が長江流域に移動していく。
→黄河の地から遊牧・掠奪部族が侵入→長江流域が戦地へ
→江南人始め、長江の地を追われ→長江文明崩壊
⇒ある部族は南下し、ベトナム、ミャンマー等の地へ
⇒長江流域で航海に長けていた部族が日本あるいは南朝鮮へ
弥生人が朝鮮半島南部から日本列島へ渡るにあたって朝鮮半島南部地域に移民船団を組む基地が必要
移民船団完成後その基地(漁村)をなんで完全に引き払う人っ子一人まで移民船団に乗る必要があると思うんだい?
移民グループと朝鮮半島南部に残って朝鮮半島と輸出輸入用漁村維持したグループに別れたと見るのが自然
なので日本列島に弥生人、朝鮮半島南部にも弥生人の領土ふるさとが残っていて何もおかしくない
>>345 なるほどね
任那加羅に相当する地域の前方後円墳を韓国がボッコボコに壊してるという事は、まぁ日本の勢力下にあったのを暗に認めてるんだろうしな
チョンさん見てるー?
>>346 分析した先生に泣きながら抗議してこいや、チンパンジー
古代人の脳の遺跡は5例歯科内
青谷上寺地遺跡の脳の研究が進むと、今以上にバレる事もあるぞ
つまり実は、縄文後晩期~弥生期初期、日本列島から朝鮮半島に縄文人が進出し、朝鮮半島に残る者も居れば、子孫が日本列島に舞い戻っていた奴もいた
お前さっさと、泣きながら古代人の脳破壊してこい
まあ実際イギリス人とインディアンみたいな感じだったんだろ
そう考えるのが普通やろな
言語からの話では面白いのがコレ
> ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所が率いる国際共同研究チームが、
> これまでの通説とは全く違う研究結果を出した。韓国を含む11カ国の35の
> 研究機関により構成された研究チームが、国際学術誌「ネイチャー」に発表した
> 論文で、「歴史言語学と考古学、古遺伝学の3分野のデータを基に交差検
> 証・分析した結果、トランスユーラシア語族の起源は、初期新石器時代の
> 約9000年前の中国遼河一帯でキビの農業を営んでいた耕作人たちの言語だと
> 明らかになった」と主張した。キビは稲作の前から栽培されていた雑穀だ。
>略
> 研究陣チームは「欲知島(ヨクジド)の古代韓国人の遺伝子を新たに分析した
> 結果、これまで日本にだけ存在したと言われていた日本人の祖先の縄文人が
> そこで暮らしていて、現地人との混血が行われた事実も明らかになった」と主張した。
>
> その後、3300年前に遼東や山東地域に住んでいたこれらの人々が、
> 朝鮮半島に移住し、米と麦、小麦を耕作リストに追加し、3000年前にこれらの
> 農作物が日本の九州に伝わったことが明らかになった。それを機に日本は縄文時代から
> 弥生時代に移り、日本語への「言語転移」(linguistic shift)が行われたと
> 研究チームは明らかにした。
>>355 韓国は任那日本不の存在そのものを否定しているのは間違いのない事実
しかし
それをネトウヨちゃんが受け入れるということは
モメンにとってはもはや当たり前となっているとしてよい
朝鮮半島南端にあった加羅などの倭の地域こそが
日本国を形成する「土台」となったことを認めるようなものだよ
>>357 そこらは今は不幸な許されざる出来事って扱いでしょ?
イギリス人が俺たちはアイツラにテレビや洗濯機を与えたって言ったらどうなる?
それを書いた記者は死ぬまで叩かれる。
縄文人と渡来人の関係も同じ。
ゆこうな許されざる出来事。
大日本帝国と朝鮮人の関係も同じ。
コレに関しては韓国は世界で一番大きな声で喚いてるよね?
ギリシャが各地に植民市を建設したというのがあるがギリシャ本国の土地を放棄したわけではない
では弥生人は日本列島に植民をしたので本国にあたる朝鮮半島南部地域を放棄したのか?そうは思わない
なので朝鮮半島南部に弥生人が支配していた土地が存在していて何もおかしくない
渡来人が縄文人に鉄器と稲作を与えたなら
明治政府は朝鮮人に地下鉄と下水道を与えた。
漢字混じりハングルも明治政府の発明だぞ?ありがたく利用しとけ。
>>361 そう
弥生人が渡来人であったことは
昔のミトコンドリアではなくゲノム解析レベルで確定したこと
あとは「どんな形で」「どの時期に」「どんな人たちが」「何度」渡来したか
ここらへんだからね
>>1の
>>3に掛る話は
それが実は記紀からも読み取れてしまうぞという面白い話で
これは神武以前に大和地域を支配していた「ニギハヤヒ」が
渡来した話と推測することが可能になるわけで
>>352 漢語だから発音が似ているのは当たり前なんだけど…
そういう意味でネタなの
天然さんかよ
>>363 まずは、弥生期初期、日本列島の縄文が朝鮮半島に進出してファックだろ
次に朝鮮半島に残った、男系縄文人、女系弥生の混血が引き続きファック、朝鮮半島から祖国日本に戻った男系縄文、女系弥生の混血が、朝鮮半島から恒常的に女連れ去りファック
いわゆる渡来人との戦いの痕跡があるにはあるんだけどこれが少ないんです
だから昔の日本人は大陸の人たちと折り合えていたんです
なので反韓反中ギャオオオオオンをやめましょう
アマテラスとスサノオの活躍時期は1世紀後半から2世紀前半
2世紀中盤、実力者のスサノオが死ぬと、九州と出雲の政治バランスが崩れ、倭国大乱が起きる、倭国大乱はアマテラスの孫たるニニギの天孫降臨
2世紀後半、出雲国譲り
3世紀中盤、アマテラスのひ孫たるニギハヤヒの河内国降臨
4世紀前半、ニニギのひ孫たる神武の東征
4世紀中盤、大和朝廷成立
全部、日本列島内だけで完結してる
>>354 戦争や飢饉や災害から逃げたんだろおそらく
つか初期(縄文晩期)は朝鮮半島からじゃなあく沿海州からリマン海流に乗ってやって来た説があるぞ
しかも分子人類学の斎藤成也によると三段階渡来
弥生といってもいろいろ人種がミックスされていると主張している
ネトウヨとされる人たちは日本が好きなら古代日本人を見習いなさい
もちろん蝦夷討伐は除くけど
>>359 流入と呼ぶなら分かるけど土台とまで行くのはどうだろうか
前方後円墳は3世紀に狭義の大和(奈良)で出来て、日本各地に出来るのは5-6世紀、朝鮮半島南部に出来るのは6世紀
つまり主導的な勢力は3世紀には大和(奈良)だった可能性が高いだろうよ
倭王武も任那が土台という意識は全くかんじないし
東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國(これが任那)
故地ではなく征服だからな
>>370 古代縄文人に習って自称渡来人を攻撃してる。
東北にその死闘の爪痕がある。
https://i.imgur.com/xsV3dr4.png >>369 俺も集団移民は数家族から、せいぜい村単位だと思う
百済滅亡は別として
弥生人が移民する手順としてちまちまパラパラと人が移ったところで集落を築けず縄文人集落に吸収されるだけじゃないか?
それならばまず先遣隊を送って縄文人集落の位置、川の位置、食料の取れる森の位置の偵察、後続の移民船を迎える拠点作りが必要なはず
弥生人が難民船のような形で行き当たりばったりで来たでなく長期計画を立てて先遣隊を送り移民船団の完成させ大規模に来たと想像するほうが自然と思うね
アメリカにはイタリア人もフランス人も黒人も大勢移民してるけど
支配してるのはアングロサクソンとユダヤだろ
黎明期の日本もそういう状況だったはず
>>119 ジャップ最初から最後まで終わってた(´・ω・`)
>>374 移民船を運営する民間組織やブローカーのような人物や組織は在ったのだろうと思う
国家単位でやるとすれば、もはやそれは征服になる訳だが、当時から文字が残ってる中国の正史にはそれらしい記述は特に無い。強いて言えば徐福か
行き先に村(帰化人含む)が在るから、その隣へ隣へ(壹岐国、末羅国、伊都国等に相当する地域)とジワリジワリと居住地を拡げていって、現地でも世代を経て人口増加して、何世紀か後に国家を形成していった
ヤマトに王権と呼べるものが出来るのは徐福から400年後なので、急に移民が来て国家を建てる云々は違うような
遥かに文明が進んだ後の時代でも、メイフラワー号からアメリカ独立宣言まで160年は経ってるしな
>>375 東北に700年近く戦争してた痕跡がある。
その決着がついたのが13世紀。
アイヌ誕生の時期。
アイヌはアボリジニーに分類されるけど
ここらは人権的な意味で英語圏に分類された可能性も。
倭の五王 讃・珍・済・興・武は大陸風の名前だよな
武は武烈天皇とかこじつけてるが漢字が入ってないからそれは違うと思う
>>366 狩猟民と農耕民て
実は武力対決が少ないんだよ
利益になるエリアが全然違ったり
狩猟民が土地所有の概念を持たないからね
食い物で餌付けされて、溶け込んで終わりってパターンが多い
あとは、築いた時には、戦争にならないほど負けてるって言うね
結局、縄文民はサンカとかマタギとか被差別になって終わり
今、半島に住んでるチョンは天皇とは関係ないよ
今、半島に住んでるのは、中国吉林省や満州辺りにいた、遊牧民のフヨ(プヨ)、ワイ族、エベンキ
>>103 でも当時に軍を何度も渡海させられるほどの力があったか相当怪しいよな
>>298 韓国はモンゴルが濃く入ってるんじゃない?
森喜朗みたいな韓国顔って日本にはあまりいないよね
>>383 縄文人の所属した南太平洋グループは
独自の船を持っていた。
中国の船はエジプトから3000年かけて
伝わってきた技術。
https://m.youtube.com/watch?v=agV0c7FbTYw >>384 元寇の時に韓国のあたりを基地にして
韓国にモンゴル人が200年近く居座ってた。
ペストによるブラックデスが起きて李氏朝鮮に切り替わる。
兼川晋『百済の王統と日本の古代』
平井進『倭の原像』上下巻
出野正・張莉『倭人とはなにか』
>>379 倭王武に比定されるのは雄略天皇、ワカタケル。武烈天皇は4代後だ糞バカ
>>388 妄想で比定しているだけだろ
根拠ないじゃん
しかも今の所実在性も0
フェッカタシル ←これwww
それと「大長谷若健」という名前の由来が
初瀬川にある長谷寺だというのだからどうしようもない
「はつせ川」にある「ちょうこくじ」ということで「はつせでら」と呼ばれるようになった
倭奴国の成立が、全ての始まり
倭奴国王の子供がアマテラス、スサノオ
すると
アマテラスとスサノオの活躍時期は1世紀後半から2世紀中盤
2世紀中盤、実力者のスサノオが死ぬと、九州と出雲の政治バランスが一気に崩れ、倭国大乱が起きる
アマテラスの孫たるニニギの天孫降臨は倭国大乱の話
2世紀後半、出雲の国譲り、大国主の息子たる事代主(大物主?)は大和に逃げる
3世紀前半~中盤、アマテラスのひ孫たるニギハヤヒの河内国降臨
4世紀前半、ニニギのひ孫たる神武の東征
4世紀中盤、大和朝廷成立
ニギハヤヒは、大和に逃げた事代主(大物主?)を追跡するようアマテラスから命令されたと思われる
全部、日本列島内だけで完結してる話
アマテラスが本当に女で、アマテラスとスサノオの誓約が結婚を指すなれば
登場人物全て、男系スサノオ、女系アマテラスの子孫と言う事になる
外部勢力は全く関係無い、タダの親族同士の争いなのである
まぁ韓国人が日本書紀を聖書のように崇めさえしなければ
色々と面白い書物だと思うけどね。
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