徳川家康⇦三河の田舎侍が日本全国を支配し天皇すら従えて200年以上続く王朝を打ち立てたという事実。コイツ何もんだよ [535650357]
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普通に信長や秀吉よりヤバいだろ
http://jap.com
ヤバすぎでしょ
この二人ですら天皇の権威に逆らえなかったのに
Jフォン→ボーダフォンのインフラそのまま流用してボロ儲けしてるソフトバンク孫正義みたいな男じゃん
むしろ足利がほんま謎 >>10
足利は源氏だったからというより北条とズブの血縁関係にあったのがでかかったみたいね この当時のボンボンは自分も最前線で戦うから今の世襲より全然マシよな 皇室の権威を武家の下に明確に追いやったのがすげえよ
信長なんか天皇にへこへこしてたし秀吉ですら下手に出ざる終えなかった
それをビシッと一喝したのが家康 こないだの大河で鎌倉幕府の異常さを再確認
あんなに喧嘩ばかりしてよくもまあ四散しなかったものや >>18
信長は正義マンだったからな
それぞれが私欲に走ってカオスになってた日本にそれぞれの立場でやることちゃんとやろうよ!ってカツを入れたのが信長
だから朝廷が案件対処でグダった時とかは叱ったりしてる
秀吉は棚ぼたでそんなつもりがなくて出自を飾る時間がなかったから天皇権威を使い切るしかなかった >>16
橋下徹氏 安倍元総理から「命狙われているでしょう?」初対面で励まされた思い出
僕の大阪での政治の状況を見て、メディアでの状況を見て“橋下さん、命狙われているでしょう?”と。“家族心配しているでしょう?”と。“でもね、政治家ってね、命を狙われるようになって、それが政治家なんですよ”と。“大変だと思うけれども頑張って下さい。私もそういう政治をもう1度、日本のためにやっていきたいと思う”ってことを言われていた」と回顧… 家康のひ孫が女性天皇になってるのに
その話はあんまりクローズアップされないよなあ
そもそも入内させた時点ですごいんだが 天皇の外戚ってやってることは平清盛そのものやん
なぜか逆賊呼ばわりされないけど 難易度的には信長よりは低いけどそれでも普通は
100回くらい死に戻りせんと天下統一成功しなかっただろうな
特に序盤中盤が厳しい 家康のやったことを見習えば鳥羽伏見の戦いで負ける事はなかったのに
尊王狂いの水戸出身の慶喜を将軍にしたから負けた 秀吉も大名家を取り潰して権力を集中させようとしたが中途半端だったし跡取りがいなかった
家康がそのあとを継いだということ >>29
本来水戸には将軍位がいかないようにしてたのにな 秀忠が内政上手くやったのが大きい
ラッキーなのか育て方が良かったのか
どっちなんやろ 開国なんてしなければ明治維新も起こらず外国とも戦争もせずにずっと平和でいられたのにな >>38
外圧だからしょうがねーだろバカ
発狂した長州テロリストのほうがおかしいから 金と政権はなかったけど権威と国民からの絶大な支持があった皇室の子女は金と権力だけはある幕府の嫁になりました。 大都会静岡で少年期を過ごしたおかげだろうな
老人になっても隠居地にするくらいだし >>22
信長は自分に恭順すれば色んな既得権益を認めていた
●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、その庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。 >>1
物を知らない田舎者か?
日本は三河が勝つように出来ている
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 経緯からして仕方ないが、信長の野望で松平ルートが作れないのが勿体ない >>48
旧主君の関係者や名家も大事にしたしな
下剋上の時代にちょっと頭おかしいレベルまであるからみんなが安心したんだろ >>24
あの辺は徳川と皇室の駆け引きだね。結局徳川の血はうけつがれなかった 信長が道筋立てたんだろう
うまく天下人になれそうなのの近くに居れたことがラッキー 天皇を従えてはいないだろ
実態はともかく建前上はあくまでも天皇の臣下であって征夷大将軍の位を朝廷から授けられてたんだから >>51
ノビナガが何だって?
三河が常に勝つように出来ていると言ってるだろう
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 >>1
1.幕府に届けられた板碑出土の情報
享和元年(1801)十一月のこと、武蔵国多摩郡府中宿本町(いまの東京都府中市宮西)の称名寺という時宗の寺で、二基の青石の板碑が発掘された。一基には「嘉暦四年」(1329)という鎌倉時代の年号、もう一基には「応永一四月廿日」(1394)という南北朝合一直後の年号が刻まれていた。
「巷街贅説」(『続日本随筆大成』別巻九)という記録の伝えるところによれば、これは境内の薮を切り開こうとして笹の根を掘り起こしていたときの発見だったが、このことはやがて村役人から代官に届けられ、翌年二月には石摺(拓本のこと)を添えて代官から老中にまで伺いがたてられる騒ぎとなってしまった。そのわけは、嘉暦の板碑は「何人の墓印に候かあい知れ」ないが、もう一基の応永の板碑に「徳阿弥親氏、世良田氏」という銘が刻まれていたためだったのである。
徳阿弥親氏という人は、新田氏の一族、世良田氏の出で、南北朝の戦乱に破れ、足利氏に追われて時宗の僧となって諸国を放浪し、三河国松平郷に住みついた徳川家康の先祖と伝えられている。つまり、この銘文を信じれば、この板碑は将軍のご先祖さまの「墓印」だということになってしまうのである。そこで、寺から相談された村役人も代官も、捨てておくことも出来ず、幕府に伺いをたてることになったのである。
この板碑はしかし、たぶん「徳阿弥親氏」の墓印ではない。なぜなら、紀年銘の彫り方が、その場所といい、書き様といい、異例にすぎるからである。明徳五年から応永元年への改元は七月五日のことだから、「応永元年四月廿日」という日付は、厳密には存在しないことになる。
松平氏は後世の創作だった? 明治からなんて80年くらいしか天下取れなかったと考えると300年近い間治世したとかやべーわな >>23
ほんまかいな?
日本は安全な国なんですよ!!
と違うぞ?w >>44
でたらめすぎる
頼朝は伊豆の兵と関東武士だし 松平氏も信光以前の詳細が不明な何だよな 18も支族があるし 家康の血統は安城松平市か 本来は賀茂氏なんだろうか 新田源氏ではないのだろうが >>61
そいつらは文盲のパシリ
幹部の出自を洗え
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 信光、親忠、清康そして家康と傑物当主が続いた松平氏すごい >>61
頼朝の跡取り息子の正室みても
頼朝が三河で固める意思が分かるやろ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています