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1.幕府に届けられた板碑出土の情報
享和元年(1801)十一月のこと、武蔵国多摩郡府中宿本町(いまの東京都府中市宮西)の称名寺という時宗の寺で、二基の青石の板碑が発掘された。一基には「嘉暦四年」(1329)という鎌倉時代の年号、もう一基には「応永一四月廿日」(1394)という南北朝合一直後の年号が刻まれていた。
「巷街贅説」(『続日本随筆大成』別巻九)という記録の伝えるところによれば、これは境内の薮を切り開こうとして笹の根を掘り起こしていたときの発見だったが、このことはやがて村役人から代官に届けられ、翌年二月には石摺(拓本のこと)を添えて代官から老中にまで伺いがたてられる騒ぎとなってしまった。そのわけは、嘉暦の板碑は「何人の墓印に候かあい知れ」ないが、もう一基の応永の板碑に「徳阿弥親氏、世良田氏」という銘が刻まれていたためだったのである。
徳阿弥親氏という人は、新田氏の一族、世良田氏の出で、南北朝の戦乱に破れ、足利氏に追われて時宗の僧となって諸国を放浪し、三河国松平郷に住みついた徳川家康の先祖と伝えられている。つまり、この銘文を信じれば、この板碑は将軍のご先祖さまの「墓印」だということになってしまうのである。そこで、寺から相談された村役人も代官も、捨てておくことも出来ず、幕府に伺いをたてることになったのである。
この板碑はしかし、たぶん「徳阿弥親氏」の墓印ではない。なぜなら、紀年銘の彫り方が、その場所といい、書き様といい、異例にすぎるからである。明徳五年から応永元年への改元は七月五日のことだから、「応永元年四月廿日」という日付は、厳密には存在しないことになる。

松平氏は後世の創作だった?