「ジャブだよ」「中から攻めろ」「ナイス」

自分に飛ぶ声援、パンチが当たった時のぐにゃっとした感覚、一瞬一瞬をかみ締めて、あっという間に試合が終わった。

井手さんがボクシングを始めたのは、大学1年生の時だった。オープンしたてのこのジムに、1期生として通い始めた。

最初は鏡の前でシャドーボクシング、走り込み。10カ月ほど練習して臨んだ初めてのスパーリングでは、後輩に思い切り殴られダウンを奪われた。一緒にプロをめざす仲間となら、何でも楽しかった。

それでも、1年そこそこで、井手さんは「ひざが痛い」とトレーナーに伝え、一度も試合に出ないままボクシングをやめた。

申し訳ない。でも、どう伝えたらいいのかわからない。本当は、高校生の頃から続く、父の介護のためだった。

高校1年生の時、地方公務員の父が脳梗塞(こうそく)で倒れた。当時58歳、仕事に復帰したが、まもなく認知症の症状が始まった。

家に帰ると部屋中に排泄(はいせつ)物がばらまかれていた時には、黙々と掃除をした。「よだれを垂らしながら歩き回るな」と書かれた手紙がポストに入っていたこともある。

https://www.asahi.com/sp/articles/ASR177HKYR14UTNB005.html?iref=sp_new_news_list_n