失われた55メートルの前方後円墳、再発見のきっかけは1枚の古写真
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASR1N6SB8R1NPPZB001.html
岡山大学は20日、大学に隣接する宅地(岡山市北区津島福居)に、5世紀後半に築かれたとみられる前方後円墳があったと発表した。「塚前(つかのまえ)古墳」と命名。一帯は戦後に宅地化され、墳丘は完全に失われたが、全長最大約55メートルと推定される。墳墓発見のきっかけは、大学に持ち込まれた1枚の古い写真だった。
同大の野崎貴博助教(考古学)が記者会見した。塚前古墳の西約10キロには、全国4番目の規模の前方後円墳「造山(つくりやま)古墳」(北区新庄下)がある。今回の古墳発見の意義について「造山古墳を築いた強大な吉備の集団が分裂し、旭川下流の平野部にも広がっていく過程がより鮮明になった」としている。
写真の地面の高まりについて、野崎助教は前方後円墳か否か、お塚様古墳か、別の古墳なのかを解明する調査に着手。明治期の地籍図との照合、過去の研究報告に記されていた付近の円墳との位置関係、現地の踏査などを進めた。お塚様古墳の数十メートル南側に築かれた、より大きな前方後円墳だったとの結論に達した。
野崎助教は「存在を知られていなかった古墳が写真で確認され、突然現れるという例は珍しい」という。塚前古墳とお塚様古墳について「築造した集団が同じ可能性が高い。高い位置にあるお塚様古墳が先に築かれたのだろう」と話した。
県内では、備中の足守川流域に4~5世紀前半に築かれた造山古墳などの巨大古墳が集中して発見されている。5世紀後半には大きな古墳は少なくなり、備前の旭川西岸の下流域には古墳が乏しいとみられていた。
会見に同席した同大の清家章教授(考古学)は、雄略(ゆうりゃく)大王(天皇)が地方の巨大豪族を討伐したとされる時期と一致する点を踏まえ、「造山古墳を築いた強大な勢力が分裂させられ、複数の小さな集団として自立していく過程を示しているように思う」とした。(原口晋也)
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