関ヶ原の戦いのとき上杉、伊達、佐竹連合で江戸に攻め込んでたらどうなってたの [606275763]
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武力があっても平和と安定を選ぶ人が多いということ
信長は戦闘狂だった
現代で言えば
アメリカが戦闘狂タイプで
ロシアが上杉謙信 上杉景勝vs結城秀康の二世対決は見てみたかったよな。
.>>2
秀吉が引き抜こうとした男だぞ 最上が居なかった世界線は見てみたかったな
関ヶ原で勢力図がガラッと変わったかも知れん 義のため家康と戦うぞ!うおおお→なぜか反対方向の最上を攻めてしかも負ける
10年早く生まれたら…→どっちつかずのしょうもない動きをする
家康にかなうわけない小物ばかり >>7
重臣引き抜いて弱体化と混乱測ったのだろ、伊達家の片倉もそんな感じで勧誘されてるし この頃の上杉は周辺諸国全員と仲悪いから、連合なんて無理だろ。
関係良好だったの、真田昌幸ぐらいだろ。 タイミングにもよるが江戸落とされても徳川が畿内押さえてるなら別にいいかと >>15
秀吉言うたら譜代がほぼ不在やから基盤が脆弱言えばせやろ それこそ直江兼続の口先三寸で連合できた気がする
真田昌幸に頼んでも良いわけだし 伊達が自分だけおいしい思いをしようとして、墓穴を掘って失敗する可能性が高いらしいな 家康は動けなくなるし
石田西軍は富士川辺りまで一気に攻め上がっただろう >>7
信長が人を見る目があるのは分かる、家康も人を見る目ありそう
秀吉は特に人を見る目が有るように思えんから秀吉から見込まれて引き抜き受けたっていっても別に有能には感じないんだよ まず最上が秀吉絶対許さないマンなせいでありえないんだけどね 伊達は長谷堂の戦いを様子見する仕事で忙しいから行けないぞ >>3
この頃って鎌倉どうなってるの?
ただの寺社仏閣都市なの? >>19
直江と真田の関係ってそんなツーカーだったのか? 4000で攻めて500が守る城落をとせなかったり
18000で攻めて1000が守る城を落とせなかったり
このころの最上相手の上杉の雑魚ムーブがすごいんだけど
一向一揆とか織田相手に無双してた謙信のころの上杉兵はどうしちゃったの? >>9
北条征伐の豊臣軍は山中城なんざ半日で攻め潰したのにな 謙信一人死んだだけでそんなに弱体化したのか
戦闘マシーン過ぎるだろ >>34
謙信が後継者を決めてなかったのでまず義理の息子2人で内乱が起こった
さらに勝った上杉景勝がかたよった恩賞をしたので反乱が起こった
この身内びいきの恩賞をしたのは上杉景勝・直江兼続が有能でないからだと思う
景勝時代の上杉が大国だったのはたまたま状況的に付く相手が秀吉だけだったのが大当たりしたから 江戸に攻め込んでも、何もないのに・・・
沼地ばかりだし 伊達が上杉佐竹と組むというのはよほど徳川が負け込んでない限り想定しがたい
両家と利害が対立しているからね >>37
伊達は引いたでしょ
最上が止まらなかったけど 最上南部が背後をつくし、結城秀康 秀忠 とかいろいろいるから
そもそも佐竹義重が家康方についてる時点で佐竹詰んでるだろ
伊達もどうなんだろうな 石田に散々なことされてたし(横山光輝の伊達政宗だと)
ひゃくぱーありえないしょ 伊達は政宗や片倉に戦場経験が多めなのが強みだと思う
東日本だと戦場経験者自体が少ないでしょ まあその為に結城秀康残してきたし、情勢見極めるのにしばらく江戸から動かなかったしな >>44
同年9月7日、徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には結城秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、父子がそれぞれの立場をわきまえて生涯認めあっていたことは確かである[15]。 そういう事が起きない為に色々外交工作もしてるし、対策もしたからこそ満を持して家康は出陣したわけで
そういう動きが少しでもあれば別の方法を取ってたんだから、こういう仮定は意味がないわな
小牧長久手の戦いでも家康不在の三河を攻めようって作戦が秀吉側であったが
それに察知した家康の対策で失敗してるわけだし >>46
秀吉がどんな作戦で三河を攻めようとして、家康はどういう対策取ったん? 伊達は糞田舎の弱小武士相手に無双してただけの雑魚だから、徳川の残兵相手に玉砕したと思う たぶん厳しいとおもう
佐竹は近いからいいけど
上杉、伊達は行軍の距離があるので兵站に問題有り 佐竹って加藤清正らの石田三成襲撃事件のときに
義宣がかくまってたんだよね
安倍晋三のテロ事件といい当時もぶっとんでるよね 伊達は上杉領に旧領が含まれていたから取り戻したかったんよ
佐竹は伊達に痛い目あわされた怨念があるんよ >>9
駐車場が小さくてそんなに兵送り込めんかったんだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています