「歴史」を捨てた方が幸せになれるとしたら?
ガンダムとアボリジニから、歴史のリアルを考える


こういう問いを持ちだすと、必ず歴史(特に近代史)界隈に湧いてくるのが、「歴史は『物語』ではない。
『史実』を軽視する歴史は、南京大虐殺が起こらなかったと主張するような、悪しき『修正主義』と同じだ」という人々である。

実際に保苅も悩まされたようで、同書も架空の「実証主義歴史学者」や「市民運動派社会学者」がその種の発言をして、保苅の逡巡を批判する構図をとっている。

たしかにそういう立場の人なら、史実に基づく「リアル歴史」なるものの意義に、悩むこともないだろう。
開港後の日本史よりもガンダム世界の歴史の方が面白いです、などという不真面目な輩には横っ面を張って、
「日本の近代史をめぐって、中国や朝鮮の人たちとのあいだに、今どれだけ大きな『歴史問題』があるかを知らないのか!」とお説教だけしていればいいのだから、楽である。

しかし、東アジアのどの国でも遅かれ早かれ、「戦争体験者が一人もいない時代」は来る。
自分自身の体験ではないという意味では、「リアル歴史」といっても誰もが、
公教育のテキストであれ、市場で消費される小説やドラマであれ、
なんらかの「物語」を媒介としてのみ追体験し、語り継いでいるにすぎないという世界は、遠からず出現するのだ。

その時に私たちは、享受に当たって痛みを伴う「リアル歴史」の方を、それでも選んで生きるべきだといえるだけの基盤を持っているのだろうか。
むしろ、国家単位での歴史の語り継ぎが、国際的な「歴史問題」を引き起こすなら、そんなものは捨ててしまうのが一番の解決策ではないか。

個々人がめいめいバラバラに、史実か架空かにこだわらず、好みの物語を「歴史」としてチョイスするほうがずっと平和になる。
――そんな空気は、現実に私たちの時代にも、しのび寄っているように感じる。


https://toyokeizai.net/articles/-/11789