アジアからやってきた恐ろしい気球が、モンタナ上空を漂っていた。1944年のことだ。
小さな焼夷弾が取り付けられたこの気球は、モンタナ州の町カリスペル近くの森林地帯に墜落し、くしゃくしゃになっていた。幅10メートルのラミネート紙でできたこの奇妙な機械装置は、1944年12月、2人の木こりによって発見されたのち、連邦捜査局(FBI)と陸軍航空隊によって調査された。気球には、これが日本のものであり、数週間前に日本の工場で製造されたものであることが記されていた。
同じ頃、ワイオミング州のサーモポリスという町の近くで、爆発によってできたと思われるクレーターが発見された。その後、オレゴン州エスタカーダ近郊で、1機の気球が見つかった。
農場や牧場で働く人たち、またそうではない人たちまでもが、気球にまつわる出来事を報告するようになった。彼らは爆発音を聞いたり、地面に小さな穴があき、その近くに金属の破片が散らばっているのを見つけたりした。また、一部が膨らんだままの風船を発見することもあった。
彼らが目にしていたのは、爆弾を搭載した気球を太平洋のジェット気流にのせて打ち上げ、米国本土を攻撃しようという日本の取り組みだった。
1944年11月3日から1945年4月までの間に、日本は約1万機の気球を打ち上げ、そのうち約300機が米国までたどり着いた。それぞれ焼夷弾2つと、15キログラムの対人爆弾1つを搭載していた。
「それは日本が持っていた唯一の、米国に到達できる可能性のあるものであり、また大きな賭けでもありました」。日本の風船爆弾プログラムに関する論文の著者であり、国立航空宇宙博物館で学芸員を務めていたロバート・ミケシュは、2020年のインタビューでそう語っている。
風船爆弾によって死者が出た唯一の事件は、1945年5月5日、オレゴン州南部ギアハートの山岳地帯で起こった。
アーチー・ミッチェル牧師と妻のエリスは、教会に通う5人の子供たちを連れてピクニックに出かけていた。牧師が車を停めている間、妻と子供たちは森の中で奇妙な物体を見つけた。牧師は叫んで警告したが、手遅れだった。風船爆弾は爆発し、彼の妻と11歳から14歳までの子供5人が亡くなった。
米国の検閲局は、日本の気球が米国本土に到達したことを日本人に知られまいとして、風船爆弾については取り上げないよう報道関係者らに求めた。
1945年の夏頃には、日本は気球の打ち上げをすでに中止していたものの、米国内外でいくつもの気球が発見された。しかし、米国での報道管制により、風船爆弾による攻撃の結果を日本人が知ることはなかった。
1944年と1945年にかけて、約500機の米国の航空機が日本の気球を探しまわった。しかし、北米で撃墜されたのは2機だけだった。
前出のミケシュは、風船爆弾は技術的には成功したが、最終段階でコントロールすることができなかったために、成果はほんのわずかだったと述べている。また、乾季であれば山火事によって被害が拡大した可能性もあるが、日本の風船爆弾による攻撃は、冬の乾燥していない時期に行われた。
気球は、桑の木の繊維から作られた薄紙を何層にも重ねて作られていた。そしてこれらを組み立てていたのは、主に日本の児童たちだった。
米紙が振り返る「日本から飛んできた“数百の気球”が米国を脅かしていたときのこと」
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa20c03a3de7771268c3afc801140c9468ada2b7