例:
二重構造説
考古学では九州の研究者は北部九州在来の縄文人が弥生化したと考えるのに対し、
近畿の研究者の多くは渡来人が主体的な役割を果たしたとしている[87][88][89][90]。
人類学者の埴原和郎は北部九州に渡来人が来て、稲作を始め、国を作ったとしている。
その後人口の増加とともに東へ移動し古墳時代には西日本一帯に広がったとする[91]。
埴原によると現代でも弥生時代から古墳時代の人口動態の影響があるという。
すなわち西日本は渡来系(弥生系)人種、北海道(アイヌ)、沖縄は縄文系人種、東日本はその両者が混雑した中間種であるとしている[92][93]。
作家の百田尚樹は、従来、両者は骨格の違いから異なる民族であると考えられていたと前置いてから、
「当時の航海技術では大量の人間を運ぶことは難しく、また大きな戦争の跡もないこと、
さらに最近のDNAの研究などからこの学説は現在ではほとんど否定されている」と述べている。[94]
また、骨格の違いをそれまでの採取、漁撈中心の食生活から米を主食にすることによる変化と考えるのが自然であると説明している。[95]
作家の竹田恒泰は「日本列島の土着民である縄文人と、日本列島に渡来して住み着いた外来の弥生人が争い、
弥生人が数の上で土着の縄文人を圧倒して徐々に駆逐した」とする埴原和郎の説[注釈 25]を学問的に否定されているとしている。[96]
竹田は骨格の両者の骨格の違いを認めながら[96]、縄文人が生活様式や環境の変化、
ウイルスなどによる変異を経て、自らの形質を変化させて弥生人になったとする説も示されてきたと述べている。[97]
また、環境の変化により体が変化した実例として、戦後、食料事情の改善と欧米の食生活の流入により男子で約10㎝、
女子で約8㎝身長が伸びた[98][97]ことを示し、骨格の違いにより「入れ替わった」「混血により同化した」と考えるのは早計だとしている。[97]
その他、当時の航海術、縄文時代と弥生時代の連続性、戦争の痕跡、核DNAの解析による遺伝的特徴などを理由にして明らかであると結論づける。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3