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小室哲哉さん “3人の小室哲哉”が議論していたヒット曲の裏側

音楽家・小室哲哉さん。誰もが歌えるヒット曲を数多く生み出してきた、その頭の中では、「哲哉くん、小室さん、てっちゃん」という、作詞・作曲・編曲をする“3人の小室哲哉”が議論していたと言います。小室さんは、ことし、理化学研究所の客員主管研究員に就任、AIを活用した音楽制作に取り組むなど、新たな挑戦に乗り出しています。いまの音楽をどう見つめ、どんな音楽をこれから届けようとしているのでしょうか。
2018年に引退を宣言した小室さん。しかし、去年10月、「今、しばらく音楽をやらせて下さい。」と自身のSNSアカウントに直筆のメッセージを掲載。復活を宣言しました。ことしは、所属するグループ、TM NETWORKのツアーを行ったほか、今月には、オーケストラと共演するコンサートも予定されているなど、精力的に活動しています。

(廣瀬)
小室さん、ちょっと髪も明るくされて、伸ばされて、すごく柔らかい表情だなというのが第一印象です。復帰宣言から1年あまりという時間が流れましたけれども、いかがですか?
(小室)
2021年の10月1日に「もう一回やりたいんだよ」って言わせていただいたんですけれども。その間に、耳がちょっと具合が悪くて、病気になっちゃったりとか、あとは鍵盤に触れたくなかったりとか、そういうこともあったりして、結構、本当にシュンって感じになっちゃったんですよ、なってたときがあったんですね。
(廣瀬)
鍵盤をもう触りたくないときも?
(小室)
1年くらいは「ドレミファソラシド」みたいなことすら弾かなかったですね。
「僕、もういいです。ちょっと今難しい」みたいな。案外弱いな、こんな弱かったっけかな、もっとすごかったのにな、自信過剰なくらい自信あったはずなのに、全く自信なくなってしまって。
でも、緊急事態宣言がコロナ禍であって、僕が家にいつもいるような感じに、ほかのミュージシャンの方とか、いろいろなお仕事の方が、日本中がお休みになった時期があったじゃないですか。
そのときに、何となく、みんな今度、復活というか、再稼働するときは、みんな一斉に「せーの」っていう感じでリセットっていうか、リスタートするんだなっていうのをぼんやりと思ってて、それは羨ましいなって。またスタートできるってすばらしいなと思ってたんですね。そこくらいから、再活動、再始動みたいなのをやってみたいなって、ちょっと実は思いだしていて。それでちょっと弾き始めてたんですよ、楽器も。
よくよく考えると、僕の人生とか立ち位置って、音楽がほぼ100%なんですよ。だから、音楽を取っちゃうと、もう立ち位置も何も、居場所も何もかも、何もないんだなっていうのがつくづく分かりましたね。すごくそれは実感しました。さらに、TM NETWORKのメンバーの2人から「どう?そろそろどう?」みたいな感じでも言ってもらって。
(廣瀬)
声かけられたんですね、直接。
(小室)
ええ。声かけてくれて(笑)
「どんな感じ?」みたいに言ってもらいました。

(廣瀬)
その中で、あらためてシンセサイザーとの向き合い方というか、その存在感みたいなものに気付かされたことっていうのはありますか?
(小室)
僕はバイオリンをやってたんですけども、ピアノは一度も正式な教育を受けたことがなくて、コンプレックスもあったりして。なので、唯一、鍵盤楽器で、ピアニストにもなかなかちょっとできないというか、ちょっと演奏しにくいところもあるくらい、逆に、ピアノじゃできないこともできるのがシンセサイザーっていうのを、いまさらピアノじゃなくて、やっぱり、シンセサイザーをずっと永遠に追求しようっていう感じで、復帰後もずっと言ってますけどね。
(廣瀬)
シンセサイザーというものに心ひかれたっていうのはどうしてだったんですか?
(小室)
バイオリンは教わってたんですけれども、頭に浮かんでるメロディーとか、弾きたいもの、いいなって思う曲とかもたくさんあったんですけれども、技術が追いつかなくて。パッと弾けるものができたらいいなと思ってたんですね。
原点となったシンセサイザー
そんな小室さんが衝撃を受けた音楽との出会いがあります。1970年の大阪万博でのことです。当時11歳だった小室さんは、冨田勲さんの音楽に魅了されたのです。そして、シンセサイザーや電子音楽の第一人者の冨田さんに導かれるように、10代の小室少年はシンセサイザーを手に入れました。
インタビューを行ったスタジオには、小室さんが初めて買ったシンセサイザーと同じ機種を特別に用意しました。