海軍乙事件
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E4%B9%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6
海軍乙事件(かいぐんおつじけん)とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の遭難により行方不明となりその後殉職扱いとなった事件および、古賀大将に随伴した参謀長福留繁中将が搭乗機(古賀大将搭乗機とは別機体)の不時着によりフィリピンゲリラの捕虜となった事件。この事件の際に福留中将が保持していた日本軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡った。行方不明となった古賀大将搭乗機の残骸など手がかりは未だに発見されていない。
(中略)
機密文書の紛失
編集
『太平洋暗号戦史』や『太平洋戦争暗号作戦(下)』のように、文書の入手や暗号解読に関わった関係者の回顧では、この計画書類は太平洋で日本軍と対峙する米太平洋艦隊やその指揮下の第3艦隊にも転送されて活用されたという。より詳しく述べると、マッカーサーの司令部の日本語専門家は海軍用語に十分通じておらず、要旨を訳した段階で、真珠湾の太平洋方面統合情報センター(JICPOA)に回送された。ミッドウェー海戦で情報戦にも勝利した後、太平洋方面ではアメリカ海軍を中心として情報組織の再編が行われた。このとき、太平洋艦隊情報参謀として数々の重要暗号解読に当たってきたエドウィン・T・レートンは太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツに対して提案を行い、太平洋方面情報センター(ICPOA)が誕生した。JICPOAはその後、ICPOAを母体として既存の暗号解読組織などを統合して生まれ、太平洋方面司令官の任にもついたニミッツの指揮下にあった。これらの組織は、1943年2月に日本語翻訳の速成教育を受けた予備士官20人を受け入れてから、日々その規模を拡大し続けていた。第5艦隊および両用作戦部隊はマリアナ諸島を目標としてエニウェトク環礁に集結しており、この時もレートンがニミッツに文書回送を具申していた。文書はハワイでの徹夜の作業によって、その全体が翻訳され、コピーが飛行艇で前線の艦隊に送付された。
(中略)
一方、カール・ソルバーグ著『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』によれば、マリアナ沖海戦(「あ号作戦」)にはこの計画書類の回送・分析は間に合わなかったように記されている。また、「新Z号作戦」は大まかに言って3通りの邀撃策を提示しており、マリアナ諸島の次の侵攻作戦を行った際に、日本軍がどの策を採用するかは不明であった。更に、「捷号作戦」が計画された際に、米陸軍との合同研究などによって作戦要領等も若干変化していた。その後、アメリカ軍の次期の大規模進攻はレイテ島に向けられることとなったが、日本軍の動静は、暗号解読、通信解析、地形・浜辺の調査、高高度からの偵察写真、墜落した敵機の分析、捕虜の尋問等に拠っても、推定しようとしていた。戦時であるからこれらの推定は多くの誤りも含んでいた。レイテ島の進攻に呼応して、「捷一号作戦」が発動された後も、出撃する日本艦隊に対処する任務を与えられていた第3艦隊は動静の全く掴めていなかった空母機動部隊(小沢艦隊)を含む日本軍の航空作戦に気を取られ、戦策の一つとして示されていた水上艦の活用には注意が向いていなかったという。
24日の段階では第3艦隊は進撃する日本艦隊(栗田艦隊)に空襲を加えた(シブヤン海海戦)。その日の晩の集計では大和級戦艦1隻炎上傾斜、金剛級1隻損傷大、ほか戦艦2隻に爆弾・魚雷命中、軽巡洋艦1隻転覆、重巡洋艦2隻に魚雷命中などと報告があり、第3艦隊司令部は栗田艦隊に壊滅的な打撃を与えたと判断した。加えて栗田艦隊は欺瞞のために一時反転していたことから、司令長官のウィリアム・ハルゼーはもとより首脳部は本当の意図に気付かず、夕方に索敵機が発見した小沢艦隊の捜索が目下の課題となっていた。
(後略)