>>366
「作者の人格と作品は別」っていうのは、
文芸的評価とか美術的評価とか音楽的評価とか、そういう
「ある種の客観性と論理性をもって、成果物そのものを研究したり分析したりした際の成果物に対する評価」が変わらない、
ってことだろう。

『あいつはクズ野郎だから、あいつの作品なんか見たくない、胸糞悪い」っていうのは
少なくとも商業的価値観や消費者の立場からの価値観としては全く否定されるものではないし、
むしろそういう面があったところで何が問題なのかって話だろう。

そもそもでいうなら、「作品」とやらは自己表現といった面も強いんだろう人もいるだろうが、それ以上に
それを世に出す、世に問う以上は「それに触れた者の、何らかの感情を動かす」事を目的または重要な手段にしてるわけだろう。
だって自己実現です!自己表現です!ってんなら世に出す必要もそれを売る必要もないわけだよ。

「作者がどんなにクズ野郎だろうが俺は関係ない」って人はもちろん問題ないし、
「作者があんなクズ野郎だから俺は奴の作品は嫌いだ」も全く問題ない態度だろう。
それどころかその「関係ない」「許す」「許さない」の閾値がその人の道徳観の中で変わることだって全然問題ない。

例えばね、今ではそこまで忌避感はないけど、リヒャルト・ワーグナーの作品やリヒャルト・シュトラウスの曲は
イスラエルではかつて長らく忌避されてきていたんだよ。その理由はもちろん分かるだろう?
シュトラウスはともかくワーグナーは別に直接何の関係もないが、それでも「忌避される」ことはあるし間違ってはいない。