「まさか自分に声がかかるとは思ってなかった」と真砂勇介は言う。
2012年のドラフト4位でソフトバンクから指名を受け、飛び込んだプロの世界。
4位という指名順位は、高校生としては決して悪くはなかった。
入団と同時にブレイクした先輩スラッガー・柳田悠岐にあやかって「ミギータ」というニックネームを授かったのも、
その将来が嘱望されていたことの証だろう。球団の期待は、2度にわたり国外のウインターリーグに派遣されたところにも表れている。
入団2年目のオフ、台湾で開催されたウインターリーグ。ホスト国・台湾や韓国、そしてヨーロッパの有望株による
選抜軍と戦ったのが国際デビューだが、本人は「もう覚えていない」と言う。
毎年のように育成選手を含む新人を大量に獲り、その育成選手が数年後には主力選手となる“下剋上”が
当たり前の福岡ソフトバンクホークスという強豪チームの中では、生き残るのが精いっぱいだった。
WBCのような国際大会は夢のまた夢。自分にはあまりに遠い話で、その舞台に立つ自分を想像したこともなかった。
しかし、皮肉なことに、プロの舞台から去る決断をしたとたんに、その夢の舞台は向こうからやって来た。
「参加資格があることも知りませんでした」
真砂の両親は中国生まれだった。と言っても、真砂自身は日本生まれの日本人として育った。中国語も話せない。
WBCには「両親のどちらかが当該国で出生」というナショナルチームへの参加資格があるが、
そもそも自分に縁のないことだと思っていたので、そんなことを確認することもなかった。
「そもそも自分に参加資格があることも知りませんでした」
そんな真砂のもとに、両親の母国である中国からWBC代表チーム参加の打診があったのは、
年が明けてずいぶん経ってからのこと。昨年限りで退団したソフトバンクの関係者からの連絡だった。
この時にはすでに社会人野球チームをもつ日立製作所でのプレーが決まり、社業に従事しながらアマチュアとして
野球を続けようとしていた真砂にとっては、まさに青天の霹靂だった。真砂はいったん返答を保留した。
「もう会社の人間ですし、まずは許可獲らないと」
会社は、まだ入社したばかりの真砂を快く送り出してくれた。
自らの“経験”を若手に伝授する役割も
中国野球のイメージは全くなかった。正直なところ、中国に野球リーグがあることも知らなかったし、どんな選手がいるのかも知らなかった。
https://baseballking.jp/ns/column/358641
代表チームは2月20日に来日。成田空港に到着すると、その足でキャンプ地の鹿児島に移動。県内各地でキャンプを張るアマチュアチームとのテストマッチに臨むことになった。
真砂も、チームがキャンプを張る日置市湯之元に馳せ参じた。「若くて元気がいい」というのが第一印象だった。
ひたむきな野球に対する姿勢については、真砂だけでなく、中国代表チームのプレーを見た者が口をそろえることだ。