岩倉使節団が外国をまわっていた頃、日本の朝鮮の関係悪化をより強めてしまう事態が起こります。
日本からの外交文書が幕府の頃に使われていた形式と異なるという理由で国交を拒否する朝鮮、
1873年の5月には釜山にある日本側の滞在施設の門前にて、日本侮辱を意味する書が掲示してあるという情報が入ったのです。

これを知った板垣退助らは怒って征韓論を唱えて朝鮮出兵を主張。
ただ、西郷隆盛だけは征韓論を主張しつつも、方法として出兵ではなく自身を大使にして派遣してほしいと求めました。
板垣退助らも最終的には西郷隆盛の主張を支持、こうして西郷隆盛の朝鮮への派遣が決定します。

しかし天皇の許可は降りず、なぜなら岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの要人が岩倉使節団の任務中で不在だったためで、帰国を待つようにと促したのです。
西郷隆盛ら留守政府はこれに従って岩倉使節団の帰国をじっと待ち、そしてとうとう岩倉使節団が帰国する日を迎えました。


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板垣退助:
土佐藩の武士の長男として生まれました。子どもの頃は、あまり勉強が好きではなく、幼なじみの後藤象二郎とけんかばかりするわんぱく者でした。
大政奉還を掲げる土佐藩の考えよりも、武力で幕府を倒す倒幕派の考えに同調し、西郷隆盛らと共に行動します。