中江兆民先生 「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」 なぜ日本では哲学が生まれなかったのか? [157470334]
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知っておきたい哲学の常識(11)─日本篇(1)
明治の先覚者・中江兆民には福沢諭吉ほど影響力はなかった。福沢が科学時代の先陣を切ったのに対し、
兆民の方は政府にとって厄介な「民権」を掲げたからである。「民権」は今でいう「人権」のことであるが、当時の政府は
天皇制国家の建設途中であったので、そんなものは後回しにしたのである。
その兆民は「日本に哲学なし」と言ったことでも知られる。彼のいう「哲学」とは、既存の思想や宗教や制度について疑問をもつことを意味した。
日本にはそうした伝統が根づいていないと痛感したのである。
兆民は「人権」発祥の地フランスに留学した。大学にではなく、なんと小学校に。成人した知識人が外国の小学校に留学したという話は
めったに聞かない。フランスの小学生たちに珍しがられたろう。
なぜ小学校だったのか。フランス国民の思想を知るには子どもたちを見た方が早いと思ったからだ。卓見というか、勇気があるというか、なんともすごい。
では、彼はそこで何を学んだのかといえば、その結論が先に述べた「日本に哲学なし」である。日本人はフランス人の子どもほどにも物事を疑わない、
そう感じたのだ。
確かに、日本人は太古から現代まで物事を疑わない。なにかを信じ込むというふうではなく、すべてを当たり前のこととして受け止めるので、
疑いが生じないのである。そういうわけだから、社会制度の改革とか、神話体系への批判とか、起こるはずもない。兆民の言うとおり、「日本に哲学なし」である。
しかし、国民に哲学はなくとも、哲学者がいなかったわけではない。ただし、いくらすぐれた哲学者でも、この国ではその思想が理解されて受け継がれるかわりに、
その人物を神棚に祭り上げることで葬り去る。太宰府天満宮に祀られている菅原道真を見ればよい。頭が良かったので周囲からけむたがられ、
筑紫国に左遷され、死んでから神様扱いとなるのだ。
https://www.data-max.co.jp/article/63347 哲学ってもともと自然科学だからさ
アニミズム信仰しちゃったら不可能なのよ 一方、西洋世界では
凝り固まりぐずぐずに煮詰まった哲学の無い世界を模索しているのであった 知能の高い人間が、不幸な時間を過ごすと哲学者になる。 哲学はニートの学問
昔から日本人は働き者だから哲学をする暇がなかった ジャップ村の掟が全てだから
それ以外を考え行動すると村八分で生きていけない でも「哲学」という漢字語は和製漢語なんだよな
概念だけあるって >>7
哲学は貴族の学問 支配階級の証
日本人は奴隷しかいないので必要なかった >>10
これも中江は反対してた
先哲の学とか意味わからん理学だろって >>7
これだよな
封建社会でない自由都市で
余暇を持て余す賢人がいることが条件 日本に哲学は生まれなかったなんて嘘だね
日本には死の哲学が生まれた 哲学って存在や神がどうとか言ってるけど、やってることは単に自分探しでしょ 一休さんに出てくる「そもさん!」「せっぱ!」
ってのはソクラテスの哲学に通じる良い線いってた
江戸時代が平和で真剣に考える余地を与えなかったせいだろうなあ 何から何まで外国からのパクリで権威主義の世襲マンセーで外圧でしか変われないから >>21
禅問答は論理じゃなく超論理だから
ブッダの教えのほうがずっとシンプルで明解だ 日本で頭良い奴は禅の屁理屈世界に行ってしまって論理的思考を積めなかった 古代国家成立の時点から
「高貴な人間が下々を支配する」というのが最大の原理で、
支配者と被支配者の双務的な関係というものが成立しなかった。 >>20
ルソーはフランス革命に影響を与えて日本の法律にも繋がってるって知らんのか低学歴 禅宗が完全勝利したから
疑問を持つ暇があれば目の前の人のために手を動かせ、それが悟りへの道であると
しかし禅宗もまた哲学者がいたから広まったはずだ。道元か?白隠か? 紀元前には地球の大きさも月や太陽までの距離も分かっていた
日本は地球が丸いことさえ江戸時代まで知らなかった >>20
すべての学問は哲学 形而上学だけが哲学ではない 論理主義だからでしょ
理屈でしか物事を捉えられず集団主義で感性を殺すから幼稚なおつむしか持ち合わせていない
カルトが頂点にいるのもそれを非難できないのもすべてそこに原因がある >>1
最近さ日本人は弥生時代に
古代中華文明圏だった西遼河からやってきたことが
殆ど確定したんで、
そこから推測すると、
まず日本人は中華圏にいた時は「ただの農民とか町民とかだったんで
文字のある文明圏にはいたけど文字を使えない人たちだった」といえる
そういう人たちが海を渡って日本列島になだれ込んだんだけど
ここではもちろんいきなり「高度な稲作」がスタートする
つまり既に中華圏で確立されていた高度な技術を使った
支配階級と労働階級が「あちらこちらで短期間に乱立した」と推測できる
そのまま弥生時代はもうずっと戦争なんで哲学どころか文字が広まることもなく
古墳時代に入ってやっと治世が安定するようになって文字も広まるが
それはもちろん「百済を経由した中華の文字」
そして
ここから始まるのは「中華に学ぶ姿勢」で
それはそのまま平安時代においても中華を意識したものであり
独自の思想哲学と呼べるものが発生したのは
室町幕府においての「わびさび」という「なんとなくこの感じがよい」というものだった
つまり>>1日本はずっと中華文明の影響を受けてきた
もともとは中華の人間なんで
中華の哲学でよかったからがこの答えとなる 有史以来狭い国内で上下関係でしか人間関係を規定できなかったジャップですから
哲学的なものが生まれる筈がないわな
日本には古代における市民社会と言う歴史区分がない
中国は春秋戦国時代に士大夫層があって思想家が生まれたけどね
国外に言って遊説する事が出来たからな 日本は女文化だから
男は永遠に殺し合いやってて
そのせいで屋敷に閉じ込められてた女たちが文化を作り上げてきた たぶん幕末から明治初期にかけての西洋への劣等感を持つ日本人のいう哲学の無さとは近代物理学や電気や通信や政治思想において元となったルーツとしての哲学、って事だろう
電気の無い世界と電気の有る世界じゃ、そりゃ神とチンパンジーの隔たりがあるわな 近年の江戸時代の日本の○○は近代欧米の○○に匹敵するみたいな
江戸時代ホルホルでも哲学者って見つからないの? 士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、
科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。
『春秋左氏伝』によると、周代の身分制度は王や各諸侯の
下に大夫と呼ばれる貴族階級があり、その家臣として士と呼ばれる
階級があった。彼らは「邑」と称せられる都市国家の指導者階級で
あったが、氏族社会を基盤とする都市国家の連合体制が崩壊して
家父長制を背景とする領域国家が形成されて来た戦国時代になると、
この階級が崩れ、士は独自の能力を持って領域国家を支配する
各諸侯に仕える人々を指すようになる。
戦国時代には「士大夫」は軍人を指す語として用いられたが、戦国末
期の荀子は「士大夫」を儒家道徳を備えた官僚を指す語に転用した。
漢代までには「士大夫」が官僚を指す語として定着し、軍人を指すという
原義は忘れられた。
前漢の統治体制が確立すると、地方において強い経済力を持って人
民を保護民化していった者たちが、郷挙里選の制度下で子弟を中央
官僚として送り出すようになり、支配階級を形成する。彼らは自らを周代
の都市国家指導者層に擬えて「士大夫」と呼ぶようになる。後世からは
「豪族」と呼ばれる階級である。
魏において九品官人法が制定され、魏晋南北朝時代には豪族は漢以
来の血統と文化的実績、人民保護者としての名望を背景に、華北に浸
透した北方遊牧民の有力族長層と共に、より名門意識を高めて
後世「貴族」と呼ばれる階級に変わって行くことになるが、自らは変わら
ず「士」「士大夫」と称していた。貴族階級は、自分たちの地位を保全
するために、貴族階級から外れた者たちを「庶」と呼び、激しく差別して
政治の場から排除していた。
その後南北朝を統一した隋から科挙が実施されるようになり、貴族でなく
ても官僚となる道が開かれたが、貴族階級は科挙出身者を政権中枢の
座から締め出した。しかし、唐中期頃から経済の発展と共に新興地主層が
台頭し、彼らは子弟から科挙及第者を出すことで新たな支配階級を形成し
始める。貴族階級はこの台頭に激しく反発し、牛李の党争となって現れる。
唐末期の戦乱の中で伝統的な貴族階級は衰え、塩賊出自の朱全忠の軍
閥が唐に代わって後梁を開いた事によって、実質的に亡んだ。その後の五代の
戦乱の中で権力を握っていた者は、塩賊や北方遊牧民(北朝以来の名門部
族ではなく、より新興の勢力)に出自する軍閥の軍人が大半であったが、彼らの
軍事警察力の下で実質的に政務を取り仕切っていた者は、馮道に代表される
ような新興地主階級の文人であった。これが、後の北宋の士大夫の形成に至る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E5%A4%AB >>46
哲学という和製漢語が造語されたのが明治初期だからね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています