刺殺された石井紘基氏が残したメモ 教団と闘う住民支える「覚悟」
https://mainichi.jp/articles/20230105/k00/00m/040/309000c


刺殺
詳細は「石井紘基刺殺事件」を参照

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E7%B4%98%E5%9F%BA

2002年10月25日、世田谷区の自宅駐車場で迎えの車に乗ろうとしたところ右翼団体『守皇塾』代表の伊藤白水によって、刺殺された。
事件が起きたのは石井が衆議院災害対策特別委員長在任中のことであり、事件を知って空港から病院に江田五月が駆けつけた際には、妻のナターシャや長女のターニャも呆然としていた。
遺体には、左脇腹に致命傷と一見して分かる鋭い刺瘡があった[4]。享年63。

翌26日に警察に出頭し逮捕された伊藤は動機につき、「資金提供の仲介をした恩をあだで返すような言動をしてる」と、その供述では主張した[6]。

日本共産党系の機関紙であるしんぶん赤旗によると、加害者の伊藤白水は石井議員が国会議員初当選する前から石井議員事務所をたびたび訪問しており、書籍や日本酒を高値で買い取らせていた。
しかし、2001年頃から石井から面会拒絶されるようになると、伊藤は一方的に「育ててやったのに恩義を忘れた」と称して激怒、逆恨みするようになった。
更には、強制執行を受けたアパートの家賃の肩代わりを要求も断られたため、伊藤は包丁と手裏剣をバッグなどに隠し持って、石井を殺害する機会を窺っていた[7]。



伊藤は「家賃の工面を断られたため、仕返しでやった」と供述したが、石井が国会議員や官僚の腐敗を徹底追及していたことから「暗殺された」との見方もある[8][9][10][11]。


10月28日に予定されていた国会質問を前に、石井は「これで与党の連中がひっくり返る」と発言したという事実などが挙げられている[10]。


事実、事件当日、石井の鞄には国会質問のために国会へ提出する書類が入っていたが、事件現場の鞄からは書類がなくなっており、いまだに発見されていない。


国会では審議されない、一般会計の4倍相当の金額を有する特別会計について、質問予定だったとされている。



2004年6月18日、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡され、判決では被告が主張する「金銭トラブル」という動機を信用することができないとした[12]。
2005年11月15日、最高裁で無期懲役の判決が確定した[13]。