哲学者スラヴォイ・ジジェク「ダライ・ラマの『舌をしゃぶれ』発言への批判は見当違いだ」(クーリエ・ジャポン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/e3070fda110dd758ef5458773f7beb0173cf99ad
(前略
チベットで舌を出すのは、自分は舌の黒い悪魔ではないと示す伝統的な行為であり、慈悲の心の表れだという指摘もあった。しかし、舌をしゃぶれというのは、その伝統にそぐわない。
実は、チベット語の正しい表現は「チェ・レ・サ」で、大まかに訳すと「私の舌を食べなさい」となる。祖父母が愛情を込めて孫をからかうときに使う言葉だ。「全部あげたんだから、あとは私の舌を食べなさい」ということだ。言うまでもなく、翻訳によって意味がわからなくなったのだ。ダライ・ラマにとって英語は第二外国語で、ネイティブほど習熟しているわけではない。
もちろん、伝統の一部だからといって疑いや批判の目から逃れられるわけではない。極端な例だが、クリトリス切除も伝統の一部だ。古代チベットにおいても、厳格な階層を強制するために、現代では屈辱的と捉えられるような慣習がたくさんあった。舌を出すことの意味さえも、この半世紀の間に奇妙に変化した。
(中略
ダライ・ラマの話に戻ると、考えられるのは、これには中国当局が関与しているかもしれないということだ。彼は、中国の支配に対するチベット人の抵抗を最も体現する人物だ。彼を貶めるような映像を、中国当局が画策したり、広く流布させたりした可能性は大いにある。
いずれにせよ、私たちは今、ダライ・ラマを精神分析家ラカンの言う「隣人」として捉えた。つまり、私たちとは異なる「他者」であり、この「他者性」は乗り越えられないのだ。西洋の人々が彼の行動を非常に性的に解釈するのは、他の文化の理解は難しいということを示している。
しかし、同様に、西洋文化においても乗り越えられない他者性の例は少なくない。かつてナチスが囚人をどう拷問したかを読んで、私は強いショックを受けた。耐えがたい痛みを与えるために、睾丸を潰すための専門器具まで使ったというのだ。
ところが、なんと最近、オンライン広告で同じ商品を見つけた。
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さて、私がこの器具を使って楽しんでいる二人の男のいる部屋を通りかかったとしよう。一人の男が痛がって泣き叫んでいるのを聞いたら、何が起こっているのか、私はおそらく理解しかねるだろう。ドアをノックし、バカにされるかもしれないのを覚悟で、「これは本当に合意の上なんですか?」と丁寧に聞くべきか。そのまま通り過ぎると、本当に拷問行為である可能性を無視することになる。
あるいは、男性が女性に同じようなことをしている、つまり合意の上で拷問しているというシナリオを想像してみよう。このポリティカル・コレクトネスの時代に多くの人が考えるのは、男が無理やりやっているということだろう。あるいは、女性が男性による抑圧を内面化し、敵に共感しはじめたと結論づけるだろう。
この状況の表現には、曖昧さ、不確実さ、混乱が伴う。なぜなら、ある種の拷問を純粋に楽しむ男女は実際に存在し、特にそれが非合意のもとで行われているかのように演じる人々もいる。こうしたサドマゾ的な慣習では、罰という行為は、それを必要とする何らかの根源的な欲求の存在を示すものだ。
たとえば、レイプを鞭打ちで罰する文化においては、男は隣人に残酷な鞭打ちを頼むかもしれない。それは何らかの償いとしてではなく、女性をレイプしたいという根深い欲求を抱いているからだ。