「オランダの支配に苦しむインドネシア人にとって日本は希望であった」

オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。

1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。翌年、オランダ本国はナチス・ドイツに占領された(オランダにおける戦い (1940年))。
アジアでは、日中戦争激化に伴い英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになり、オランダ植民地政府もいわゆる対日「ABCD包囲網」に加わった。
1941年2月初め、日本は東南アジア地域を占領地とした場合を想定して、軍政を研究し始めた[15]

1942年3月1日にはジャワ島に上陸、同月9 - 10日には蘭印の中枢であるバタビア(現:ジャカルタ)を占領し作戦は終了した[18]。
オランダ側を降伏させ上陸した日本軍をジャワ島の人々はジュンポール(万歳、一番よい)と最大限の歓迎で迎えた[13]。

インドネシアにおける日本の軍政については、ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した[19]。
州長官に日本人を配置し、オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした[20]。
軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した[20]。
同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した[21]。
そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、
この国民的指導者を前面に立て実施された[22]。
スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、
オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった[22]。

教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、
官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した[13]。