【悲報】足利尊氏が勝てた理由、ガチで日本史上最大の謎だった [535650357]
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戦に負けそうになって自刃を5回行う
部下が止める間もなく高速で短刀を首に2回突き刺す
それを見た部下が介錯してあげる
でも死なないので仕方なく戦ったら勝った
熱狂的な超天皇陛下ファン
にも関わらず天皇陛下の領土を勝手に部下に再配布して朝敵認定される
朝敵認定されても天皇ファンは揺るがず
なんなら天皇亡くなってからも寺建てるぐらいのファン
自分を裏切った敵でも天皇の部下や天皇と親しかった人物は全員助命する
最終的な戦に勝つが政治の舞台には上がらずそのまま出家して隠遁生活
http://jap.com
何コイツ
なんで自害してるのに生きてんの?
はっきり言って異常だ >>1
>戦に負けそうになって自刃を5回行う
>部下が止める間もなく高速で短刀を首に2回突き刺す
>それを見た部下が介錯してあげる
https://pbs.twimg.com/media/ErnJu1WVEAECZlu.jpg
尊氏左近どん説 足利尊氏と新田義貞と楠木正成の関係性が分からん
結局、鎌倉幕府倒したのはどいつ? 鎌倉政権の重鎮だったんだから普通に順当なんじゃないの >>7
反鎌倉で決起したのが楠木正成
幕府の討伐軍から寝返ったのが足利尊氏
鎌倉を攻め落としたのが新田義貞 >>7
企画したのが尊氏と義貞(そもそも足利と新田は親戚関係)、加担したのが佐々木道誉
直接鎌倉をやったのは新田だけども
まぁねぇ、結局足利幕府樹立したと言っても戦国期の天下統一みたいに全国全て支配が及んでるみたいな状況では全く無いからな
精々京都と畿内を抑えてるくらいで、それも譜代家臣に相当権限持たれてるから造反が絶えない訳で 三河なんだから、不思議じゃないが
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 3回も武家政権が生まれてるのに誰も朝廷を滅ぼそうとしなかった事の方が気になるわ 足利って鎌倉御家人の中でも政権中枢で相当甘い蜜吸ってたのに裏切ってんだよな
対する新田は甘い蜜吸ってる足利を横目にずーっと指を加えてた
それを爆発させて鎌倉攻め込むも結局新田は足利に全部持って行かれてしまうって言う たったの700年ほど前のことなのに
よくわからないってとこが
所詮ジャップの歴史って感じよな
同じ時期にヨーロッパでは
イギリスとフランスが100年戦争してるけど
ファンタジー要素なんてないぞ >>13
答えは、そもそも天皇家の本拠地は三河国
三河国の分国主は鎌倉期に七条院、その後は持明院統
大覚寺統の本拠地は、最大の荘園があった三河国
皇別氏族たる義家流源氏の本拠地は三河国額田郡、設楽郡
三河国のオヤビンは天皇であり、義家流源氏はその下司だったんだよ
要するに天皇家と皇別氏族たる義家流源氏はグル >>8
鎌倉は革命だけど、室町はクーデター、江戸は利権争いだよな 謎の勝利は多々良浜のときくらいじゃね
負けるときは負けてる >>6
鎌倉時代室町時代の切腹は介錯無し、十字に腹を切るつうすげえ痛いやつ >>13
室町中期以降はずーっと象徴天皇みたいな物だから下手に滅ぼすより使い倒した方がよかろ >>23
首を切ってた
それで生きてんのもおかしいけど
リスカ女みたい >>15
ジャンヌダルクとか、ファンタジーみたいなもんじゃん どうする家康って今放送されてるけど
「どうする尊氏」のが絶対面白いと思う 言うほど室町も舐めたもんじゃ無いんだよな
将軍の権威は信玄や明智や信長にも及んでいたんだから 室町幕府は過小評価されすぎ
日明貿易や国風文化を築いて現代の和に連なる文化を
創出したほどなのに
末法思想が流行った鎌倉のほうが暗黒時代だぞ >>29
太平記の真田広之が優しすぎて
事態が悪化しちゃう武家の棟梁としては困ったタイプの尊氏を良く演じてた 優柔不断だけど戦に強い
裏切りまくってるのに人望が篤い
後醍醐の熱烈ファンなのに事実上失脚させて
おまけにその後も未練がましくより戻そうとしたり
矛盾しかない人物だわな 日本史における戦乱の時代
源平合戦←大人気
戦国時代←大人気
幕末←大人気
南北朝時代←不人気
なぜなのか? >>36
対立構図が訳分からん
名前も覚えにくい
高師直何やこれ ジャンプの連載は神力とかファンタジー要素入れ過ぎだけど
その原因になってる諏訪頼重が最近死んだ
…けど今週も敵のロリが嵐起こしてた 切ったって言ってもデュラハンみたいに切り落としたわけじゃないんだろ >>12
源範頼の根拠地は遠江やし三河守になったのは寿永3年6月で九州征伐は9月には始まってるから実質率いてるのは遠江兵じゃなかったのか?3ヶ月で三河兵集めて九州征伐行けるかぁ? >>42
物を知らない田舎者だな
範頼は頼朝の母親たる由良御前が養育したと言われるが
その養育者は由良御前の従兄弟
頼朝の寝床に忍び込んた範頼の家臣(範頼と乳母兄弟)たる当麻太郎
当然死罪かと思いきや、大隅国への流罪になった
何故か?
答えは、当麻太郎は三河の藤姓熱田大宮司家出自だからだ
頼朝は、母方の三河の藤姓熱田大宮司家縁故者にとにかく甘い
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季成(蒲神明宮(静岡県浜松市)神官)→当麻五郎貞稔(源範頼乳母父)→当麻太郎(源範頼家臣)
系図でみると、源頼朝と源範頼、当麻太郎はハトコ関係 範頼は三河守になれたのは、範頼は幼少期から三河縁故だったからに決まってんだろう
だから範頼は頼朝軍総大将なんだよ こいつまともに政治やらないからめっちゃ迷惑だよな
ケンシロウと同レベル >>43
人に物を教える態度では無いな
少なくとも教育者にはならん方がいいぞ
教え子が可哀想だ >>47
弟は戦に弱く政治向きだったけど後で結局は
対立して尊氏に殺されたけどね >>14
尊氏の正室は北条家だからほぼ北条一門と言って良い立場だよな
これを裏切るんだから相当ではある
まぁ直接手を下させたのは義貞で、下野の足利はその支援という形を取ったが
この辺徳川とも似た所はある
家康も今川家に取り込まれていながら後に裏切っている この時代の日本は豪快キャラが多い
現代日本人とは性格が異なるよな >>42
では、三河の藤姓熱田大宮司家とはなんぞやだが
答えは、元祖三河武士であり、神官の家系でもあった
三河の藤姓熱田大宮司家と義家流源氏
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む 介錯なんてされてんのか
何度も新しい人に変わってそうw >>21
そもそも切腹自体がメジャーな死に方じゃなかったからな
武士の自殺が割腹になったのは
江戸時代に入って処刑が格式付けされてから広まった一説には
高松城水攻の時の清水宗治が割腹して
その様が余りにも見事だったから
秀吉が格式の高い処刑として採用したとか言われてる
中世の頃は頸動脈を斬ったり
入水したりと自殺の方法も様々だった >>34
地味に名作だったよな
高嶋政伸演じる熱血漢の直義との対比も良かった 九州での戦いはマジで意味不明な勝利だったの?
あと楠木正成が子供の名前を北条時行から取ったっていうのはこじつけ?マジ? 正確には240年だが
これだけの長い政権の創始者なのに評価今一
家康は江戸時代の初代将軍ってだけで下駄履くのに 頼朝も尊氏も貴種であることがでかい
まぁライバルも貴種だから条件的には同じだが >>14
足利氏にとって、三河の藤姓熱田大宮司家>北条氏だからに決まってんだろう
足利氏のプライドは、三河の藤姓熱田大宮司家を通じて源頼朝と親戚である事に尽きるんだよ
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したんだよ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
・金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
>>27
起きたことがファンタジーみたいなだけで足跡ははっきりしてるやろ >>15
中の人たる三河人に聞かんからだろ
三河人だけが知ってるよ
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河国だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」 何か知らんが三河キチガイが湧いとるな
地元でも鼻つまみ者の自称郷土史研究爺かとかか? >>64
単行本が500部くらいしか売れなかったから無理 本人の能力は大したことは無いが、血筋の良さから
周りに担がれて神輿に乗ってたら天下が取れてしまったタイプとか
日本歴史鑑定で言われてた
だから負けた楠木正成の方が圧倒的に人気があると言う メンヘラの自傷行為みたいやん
その後の粘着ぶりもメンヘラ女そのもの 命からがら九州に逃げてそこから逆襲するのが意味不明 >>71
歴史鑑定って唐突に終わったな。最終回は穴山梅雪回だったな。
たまたま過去回の再放送だっただけかもしれんが。 弟と庶子が組んで立ち向かってきて、不利になるとお互い南朝に降伏したりして意味が分からんよな >>71
楠木正成が人気出たのって明治以降じゃないの?
天皇の忠臣という文脈で明治政府が神格化した人だし
だいたい建武の新政がうまくいってりゃ尊氏の出番はなかったけど、貴族中心に政治を戻そうという後醍醐天皇の方針が全国の武士に圧倒的に不評だったからねw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています