武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない…教科書が教えない「長篠の戦いで信長が勝った本当の理由」

堺を掌握する信長は鉄砲用の鉛を確保し経済封鎖した
これに対し、武田氏は、硝石や火薬、鉛の確保に苦しんでいた。

たとえば武田氏は、富士御室浅間神社に対し、「鉄砲玉をつくるための銅を集めている。
神前に投じられた賽銭(銅銭)の中から、悪銭を選り抜き、上納せよ。その代わり、黄金か棟別銭で補償する」と命じている。

この文書を証明するように、長峰砦跡(山梨県上野原市、中央自動車道談合坂サービスエリア付近)の堀跡から発掘された銅製の鉄砲玉は、
化学分析の結果、中国からの渡来銭と成分がほぼ同じで、銅銭を鋳つぶして作成したことが判明している。
長篠城跡出土の銅製の鉄砲玉も、化学分析の結果、中国の渡来銭と成分が一致することが今年判明した。

北条氏も、豊臣秀吉との戦争が迫るなか、鎌倉の寺社に梵鐘の上納を命じた。
これを鋳つぶして、鉄砲玉にするというのだ。北条氏は、戦争が終わったら、新造して奉納すると約束している。
この他にも、黒金玉(鉄玉)の記録も多く、東国では鉄砲玉の原材料には、鉛、銅、鉄などが混用されていたことが窺われる。

まるで、大戦中の日本の金属供出を彷彿とさせる事実である。

鉄砲装備とは、まさに西高東低であり、武田勝頼は、懸命に鉄砲そのものと、玉薬の確保を行おうとしていた。

だが、南蛮貿易や東アジア貿易の恩恵を、直接受けられぬ内陸国甲斐・信濃では、それは困難だった。
しかも、どうやら織田信長は、武田・北条などの敵国に対し、経済封鎖を行っていたらしい。
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