??富士山って古事記日本書紀に記述がないしなんのありがたみもないんだけど(・ω・) [134367759]
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文化は海伝いに広がっていったんだから
海からでも余裕で見えるでかい山は良い目印になっただろうし絶対に認識はされてるはずだよな 藤原氏の先祖が常陸から来てるし富士山見てるはずよね 富士山の裾野に別の王権があったから近づけなかったンでしょ そもそも記述がないこと自体が明治あたりに国威発揚で作った動かぬ証拠な
日本の伝統なんてものも全てそうだろ
よく考えろよ? 富士山ってたぶん日本人の情緒に響かないんだとおもう(・ω・) 日本人の豊かな情緒に富士山は。ただ高いというだけで。 何でネトウヨは最近静岡誹謗中傷キャンペーンをやってるの? >>37
朝鮮人の書いた看羊録にも出てくるのにアホか もし富士山が噴火したら・・・火山学“権威”が被害予測(2021年5月14日)
https://www.youtube.com/watch?v=cohmB_LHD-Y
(゚∀゚)呪まーす 明治にイギリスから山信仰を輸入して富士山を「発見」したんだろ
それまでは山なんて僧の修行場か老いたババアを捨てるとこでしかなかった >>6
うんこちんこまんこセックス描写満載だから、まさに5ちゃんねらーの聖典だぞw バンバンバンバン バンバン
バンバンバンバンバン バン
(∩`・ω・)バンバンバンバン
/ ミつ/ ̄ ̄\
../ ´・ω・` \富士山 ちなみに明の宋濂とかも富士山題材の詩作してるからな >>47
これ
この国の文化は借り物か盗品ばっか
恥ずかしい >>5
今のなだらかな円錐形になったのは
2200年前だってさ
御殿場岩屑なだれの後も西側の峰は噴火を続け、
この溝を新しい噴出物で少しずつ埋め尽くしたことで、
なだらかな山体になりました。現在の富士山の山頂から
見られる表面の赤い地層は、およそ2200年前に起きた
最後の大規模な山頂噴火によって積もったものです。
https://chafuka.jp/mtfuji/history/ / ̄ ̄\ ∩
.../ ´・ω・` \彡 ☆パンパンパンパン
⊂彡☆∩)) _, ,_ _, ,_
((⊂((⌒⌒ ((Д´≡`Д)) うああぁぁぁ ――――― !!! ヤマトタケルの東征に登場してもよさそうなのに出てこない 富士山て昔の人は登れなかったよな
見えるけど登れないとか恐怖スポットでは有ったでしょ🤔 富士山って情緒がないから和歌に読めないでしょう。
せいぜいフッジッサーンしかできない。 コノハナサクヤヒメは富士山の精霊じゃなかったか?としらべてみたら、あれは江戸時代につくられた伝説なんだそうだねw 2 歴史時代の火山活動
(1) 延暦噴火と古代東海道の被災
文字に書かれた日本の歴史の中で、富士山の過去の噴火は、どのくらい古い時代まで
さかのぼることができるのだろうか。
8世紀前半までに詠まれた和歌を集めた『万葉集』には、例えば「燃ゆる火を雪もち消し、
降る雪を火もち消ちつつ……」(巻三・雑歌)などというように、富士山の火山活動を題材と
した作品が含まれている。しかし、詳しい現象記述がないため、火山活動の年代・場所・様式
などの特定はおろか、「火」が本当に噴火なのか、あるいは地熱活動なのかの判断すら困難で
ある。 富士山の具体的な噴火記述が初めて現れるのが、朝廷によって編纂され、主に奈
良時代の事象が記録された歴史書『 続日本紀 』の天応元(781)年条である。ここには
「秋七月癸亥、 駿河国言、富士山下雨灰、灰之所及木葉彫萎」とあり、富士山が噴火して
降灰があり、植生に被害があったことが、7月6日(7月31日)に当時の駿河国によって
報告されている。しかしそれ以上の詳細についての記述はなく、噴火の規模・様相、及び現存する
溶岩流や火山灰層との対応関係などは不明である。
その19年後、平安時代初期の延暦19(800)年から再び富士山が噴火した。
「延暦噴火」と呼ばれるこの噴火については、当時の朝廷の公式記録『日本後紀』の該当部分が
既に失われて現存しないが、平安時代末期になって書かれた『日本紀略 』の中に抄録されていたため、
辛うじてその存在や内容を知ることができる。
『日本紀略』には、「延暦十九年六月癸酉、駿河国言、自去三月十四日、迄四月十八日、
富士山嶺自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火光照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」と
書か れている。延暦19年の噴火が3月14日(4月11日)から4月18日(5月15日)までほぼひと月
続いたこと、噴煙のために昼でも暗く、夜は噴火の光が天を照らし、雷のような鳴動が聞こえ、
火山灰が雨のように降って麓の川が紅色に染まったと記述されている。噴火の記述はここで
いったん途絶えるが、2年を経ないうちに再び次の記述が現れる。
同じく『日本紀略』に、「延 暦廿一年正月乙丑、駿河相模国言、駿河国富士山、昼夜?燎、
砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、 于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘?殃」とあり、
富士山が噴火して砂礫があられのように降っ たことを、駿河国と相模国の国司が延暦21(802)年
正月9日(2月13日)に報告している。さらに、そのすぐ後に、次のような注目すべき事実が
記述されている。 「五月甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也」
同(802)年5月19日(6月22日)に、富士山の噴火による砕石によって塞がれた足柄路を捨てて、
箱根路(筥荷途)を開いたとの記述である。
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1707_houei_fujisan_funka/pdf/1707-houei-fujisanFUNKA_05_chap1.pdf >>43
火山は低いほどパワーデカいのは常識だからな 万葉集は間接的表現すぎるので飛ばして
具体的な記述は
> 富士山の具体的な噴火記述が初めて現れるのが、
> 朝廷によって編纂され、主に奈良時代の事象が記録された
> 歴史書『 続日本紀 』の天応元(781)年条である。
> ここには「秋七月癸亥、 駿河国言、富士山下雨灰、灰之所及木葉彫萎」と
> あり、富士山が噴火して降灰があり、植生に被害があったことが、
> 7月6日(7月31日)に当時の駿河国によって報告されている>>66
781年の奈良時代で確定
>>1記紀の編纂は712年と720年なので
このときの富士山は「国を挙げての歴史書」でも注目されることはなかった存在となり
そこから
60年ほどが経過した頃に降灰キターという形で初めて
確認されると
まあ万葉集もいれたらもう少し遡るかもしれないが
それでも記紀に書かれていないということは確定していて
この記紀の編纂を含む8世紀に
「なんだあの山かっこいい」となった可能性は極めて高いね そうなるとだよ
扶桑だよ扶桑
>>1これけっこう盲点だったわ
中国人が扶桑っていうときさ
まずは富士山なわけさ
東方の果てにあるとされる巨木なんだから富士山でしょと
してきたわけよ
だから今も中国人の観光地として富士山は大人気なわけさ
でもさ
こうなってしまうと
古代中国が東の果てで扶桑と認識していたのは
富士山などではなく
もっと別の存在
糞デカイ木に見えるような別の存在の可能性が出てくると
これ阿蘇山の噴煙じゃね? 『山海経』が語る扶桑
下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。
黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある
??『山海経』海経第4巻 第9 海外東經
辺境)の中にげつよういんていという山があり、
山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、
その葉はカラシナに似る。温源谷(= 湯谷 ?)という谷があり、
湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、
太陽はみな烏を載せている
??『山海経』海経巻9 第14 大荒東經 巨木伝説ってのは各地にあるのかな
千葉の旭市には椿海にまつわる伝説がある
江戸時代に干拓されるまで椿海というそこそこ大きい淡水湖があったんだけど、これが巨大な椿が倒れた後の根っこの跡と言われてる 記紀だと桜より桃の方が珍重されてるんだよな
桃には霊力があるとされてて
いつのまにか桜の方がメジャーに 古代で巨木っつうと普通に諏訪の御柱とか思い浮かぶけど 最古の浅間神社が699年
それ以前の扱いはどうだったんだろ
もちろん山岳信仰はあったんだろうけど
大和朝廷に滅ぼされたんだろうな 富士山って竹取物語で一番高い山って言及されるくらいには有名だったんでしょ
普通にありがたいやろ
地方に行ったことないから知らんけど関西からは富士山って見えねえのか?じゃあ馴染みないのもしゃあないわ 関西からだと三重あたりからギリ見えるくらいで通常は浜松あたりが限界じゃないかなあ
古代史で記録を残した連中から見ればカムチャッカ半島の火山みたいな知ってるけど気にしない存在だったのかもね 関東だと富士と浅間が混同されてる気もするのよね
浅間神社は各地にあるけど富士神社はない
その辺にも謎があるような気がする その当時の日本って愛知県あたりまでの範囲だから当たり前 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています