2023年フランスのバカロレア試験(高校生向け)「1.幸福は理性の問題か?」 「2.平和を望むこととは正義を望むことか?」 [999047797]
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倉吉東が山陰の高校で初認定された「国際バカロレア」って何するの?
鳥取県立倉吉東高校が、山陰で初めて「国際バカロレア」の認定校になった。4月に入学する生徒から、一部がバカロレアが定めた授業を受け、試験に合格すると世界共通の大学入学資格を得られる……というが、バカロレア教育って一体、どんなことをするの?
https://www.asahi.com/articles/ASR3H74H2R2HPUUB00C.html
坂本尚志 『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』発売中!@tk_sskmt
2023年の普通バカロレア試験哲学科目の問題
1.幸福は理性の問題か?
2.平和を望むこととは正義を望むことか?
3.レヴィ=ストロース『野生の思考』(1962年)の一節を説明せよ。
午後4:18 · 2023年6月14日
https://twitter.com/tk_sskmt/status/1668880585522315264
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) バカロレアとか懐かしい
うちの静岡の高校がそれだったわ 日本とは大違いだな笑
俺は百万遍が最寄りの京都の国立大学に入ったけど
俺の時の入試は
「明治の前の元号は何でしょう?」とかだったわw 実はこの哲学の試験は過去問ゲーであり現地でもそうやって攻略されている こういうのもチャート式みたいな参考書があってパターン暗記らしい 日本の試験に恨み持ってる知未練おじさんに海外の馴染みのない試験をすごそうに紹介して溜飲下げさせる >>24
とはいえ思考の型を身につけられるんであればただの暗記よりは有用だよね これって別にポエム書くわけじゃなくて
答えが一定に定まってない内容に対してどれだけ論理的に記述できるかっていう
ロジカル・ライティングやパラグラフ・ライティングが主題だぞ これ、特権階級の子息を合格させるために記述式にしてるんだよな
記述式なら理由こじつけて高得点与えられるから 1.幸福は理性の問題か?
ちがう。セックスして気持ちいい幸せーは本能的な問題だから
俺の回答どう? >>32
え、誰でも知ってることいきなり書き始めてどうした? ザ・カンニングって映画でバカロレアって言葉が出てたけどバカ田大学的なやつかと思ってたわ 頭悪そうな認定だなと思うオレがまさにバカロレアだわ それらをウロ戦争に於けるマクロンの行動に照らし合わせて答えさなさい 哲学といったらドイツ
フランスにはろくな哲学者はおらん フランスのバカロレアと国際バカロレアって別物じゃね?
このスレだと混同されてるような >>35
これが論理的であれば合格点つくが、ただの反証はダメじゃないか? >>43
あの国にまともな哲学があればナチスに乗っ取られてなんかいなかったはずだ フランスの教育水準はあまり高くない
フランス最高の教育機関ENAですら東大の学部レベルのことしかしないって留学した人が言ってた ルネッサンス前はフランスが哲学の本場だからな
ヴァイキングが荒らしまくり軍国化し撃退後に要らなくなった傭兵で十字軍遠征
哲学を持ち帰った プラトンはキリスト教世界へ、アリストテレスはイスラム世界へと伝わった。
東方イスラームは、アラビアンナイトのバグダッドが中心であった。
西方イスラーム文化は、南スペインのアンダルシア地方のコルドバを中心地として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となった。
当時のイスラム世界は、古代ギリシア・ローマの書物から多くの知恵を学び、独自の思想・技術を発展させていた。アリストテレスが信奉されていて、イスラム文化は世界の最先端にあった。
さて、十字軍遠征の時期、西欧は低迷期(キリスト教支配の暗黒時代)で、プラトン流では、十字軍の成果が上がらないので、最先端イスラム文化のアリストテレスを学ぼう。
という空気があったのだと思う。
聖地エルサレムへの巡礼や奪回のための十字軍(1096年~1270年)遠征の副産物として、イスラム文化との交流が必然で、アリストテレス哲学が西欧に流入し、スコラ哲学として定着した。
スコラ哲学の代表的人物は
アンセルムス(1033-1109)「スコラ哲学の父」
トマス・アクィナス(1225-1274)「神学大全」;スコラ哲学の大成者
オッカム(1280-1349)「オッカムの剃刀」
で、 必然的に、
プラトン哲学とアリストテレス哲学の融合を目指すことになる。しかも、これは成功した。
また、十字軍遠征の副産物として、忘れてはならないのはインド発祥の「位取り記法(ゼロの発見)」ですね。見方によっては、これは「アリストテレス哲学」以上の影響力があったと言えるかもしれません。 十字軍とイスラム国家が衝突しなければアリストテレスは忘れられ、『ルネサンス時代』も生まれなかった
14世紀ヨーロッパのルネサンスというのは『人間を軸にものを見る』という考え方の復興でした。
それまでの中世ヨーロッパは『暗黒時代』とも言われ、ただただ神のためにある1000年間で『哲学』もほとんど栄えませんでした。しかし、キリスト教の腐敗と衰退により、それを打破する動きが活発化。その中で、14世紀の芸術家あたりから『神から人へ』視点を変える考え方が動き出しました。この考え方は、実は紀元前の古代ギリシャの時代にあったものです。ギリシャ神話の神々は人に姿が似ていて、それが理由で人が『神から人へ』視点を変え、『哲学』が生まれましたが、それは世界に広がりませんでした。『翻訳・伝播』されなかったからです。
その後8世紀頃のイスラム帝国で『アル・マンスル』がバグダードを経済的に繁栄させ、彼の孫である『ハールーン・アル・ラシード』がアリストテレスをはじめとするギリシャの化学を記録し、保存。ギリシャ語文献がアラビア語へ翻訳され、哲学、論理学、地理学、医学、天文学などの学問が発展。11世紀末にはアラビア語文献のラテン語への翻訳も盛んに行われました。そうしてギリシャ・ローマの古典はムスリム商人によってラテン語に翻訳され、それが十字軍の遠征の通り道で栄えた場所などを通してヨーロッパへ流入。 カール大帝の戴冠と大フランク王国
ゲルマン諸族は近代的な国民国家の組織を整備するには至っていませんでした。この時期ヨーロッパでは、前回お話しした東ローマのカトリック教会の教区網だけがヨーロッパを統合する唯一の組織で、土地をめぐる構想などにも教会が介入せざるを得ませんでした。
しかし、統合といっても形だけのものでした。やがて、800年にフランク王国国王のカール大帝(742-814)がローマ教皇によって戴冠され、神聖ローマ帝国皇帝となって、ガリア(フランス)、ゲルマニア(ドイツ)、イタリアを含む大フランク王国を統治するようになります。
ここに大規模な「聖」と「俗」の合流が起こります。
それとともに、この出来事が、今わたしたちがイメージするヨーロッパ世界の始まりとなります。これは重要!
アリストテレス-トマス主義
このようにローマ・カトリック教会が実際に世俗政治に介入するようになると、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」という聖書の言葉を拠り所に、神の国と地の国、教会と国家を截然と区別していたプラトン-アウグスティヌス主義的教義体系では不具合が生じます。教会はこうした事態への対応を迫られました。そうした必要に応えて構築されたのが、13世紀のアリストテレス-トマス主義の教義体系です。
この教義体系の再編成の仕事は、12世紀に教会や修道院附属の学校(schola)の教師たちによって始められたのでスコラ哲学と呼ばれました。その仕事を成し遂げたのはトマス・アクィナス(1225/26-1274)です。
12世紀の末から7期にわたる十字軍の遠征が始まるわけですが、その結果、ヨーロッパとイスラム圏との交流が始まりました。
その交流の結果、イスラム圏にいわば「埋もれていた」アリストテレスの哲学がヨーロッパに再輸入されます。
トマス・アクィナスは、そのアリストテレス哲学を下敷きにしてプラトン-アウグスティヌス主義に代わる新しい教義体系を組織します。
木田によるとトマス・アクィナスは信じられないくらい膨大な量の著書を残しています。その膨大な著作の中心になるのが『神学大全』です。
アリストテレス-トマス主義教義体系の特徴
すでに論じたように、アリストテレスの哲学はプラトンのイデア論の批判・修正です。プラトンの超越的なイデア論に対して、アリストテレスの形相論では、形相を質料そのものに内在してその生成を内側から導くものと考えました。ですので、アリストテレスにあっては、プラトンのイデア界にあたる純粋形相が、この現実界を全く超越した彼岸にあるのではなく、現実界と一種の連続性を保ったものと考えられていました。したがって、このアリストテレスの哲学を下敷きにして考えれば、神の国と地の国、恩寵の秩序と自然の秩序、教会と国家とがより連続的なものとして捉えられ、ローマ・カトリック教会が国家なり世俗の政治なりに介入しそれを指導したとしても当然だという帰結になります。ますます形を整え力を増しつつあった国民国家との関係に苦慮していたローマ教会にとって、このアリストテレス哲学を使ったトマス主義的教義体系は、有効な解決法を提供してくれるものでした。そのような事情で、以後ルネサンス期に至るまで中世を通じて、このアリス
トテレス-トマス主義が正統教義として認められることになりました。
プラトン-アウグスティヌス主義の復興
世俗政治に介入するようになった教会や聖職者は腐敗堕落していきました。そこで、14世紀あたりから再びローマ・カトリック教会に世俗政治から手を引かせて信仰の浄化を図ろうとするプラトン-アウグスティヌス主義ないしプラトン主義復興の動きが各方面で起こってきました。こうした動きは、後の15世紀のルネサンスの時代には、キリスト教とは離れた人文主義の立場でのプラトン復興の運動からも側面的な協力を受け、やがて16世紀のルター(1483-1546)の宗教改革運動へとつながっていきます。次回に論じるデカルト(1596-1650)や、パスカル(1623-1662)やマルブランシュ(1638-1715)なども、アウグスティヌス主義復興の運動と接触しながら自身の思想を深めていきました。
このように、プラトン主義とアリストテレス主義はキリスト教の教義史の中で覇権の交替を繰り返してきました。かれらの哲学がキリスト教と深く関わりながら、ヨーロッパの文化形成の根幹の部分に関わってきたということです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています