https://news.yahoo.co.jp/articles/ca79d2ebaca7df57db4b9c878bdb98e7c03aba20
「生活保護でもパチンコで遊ぶ権利はある」こうした主張に多くのサラリーマンが不快感を抱く根本原因
日本人の労働観はどのように変化してきたのか。実業家の平川克美さんは「もともと多くの人々は第一次産業、第二次産業の生産業に従事していたが、1980年代ごろから『消費をするために働く』ようになった。一方、働くことが手段化したことで働く『喜び』がなくなってしまった」という――
たとえば、おいしい行列のできる料理屋があるとします。そこに入るには、30分から1時間、待たなくてはなりません。けれど、店主と仲良くなっていれば、特別扱いをしてもらい、フリーパスで列に並ばずに料理を食することができるかもしれません。
そう考えて、そのために日頃から付け届けをしたり、特別な関係を作るための努力をする人が、この世の中には思った以上にたくさんいるのです。もちろん、これは自分が特別扱いされるために、努力をする人間がいることの譬え話です。
さて、列に並ばずに店に入れるような特権的ポジションを得るために努力する。この努力たるや、列に並んで30分から1時間待つのと比べたら、ずっと大きなエネルギーが必要だったりします。なのに、なぜかそうするんですね。特権を獲得するために合理的な行動をしていると当人は考えているのでしょうが、周囲から見ると極めて不合理なことをしているとしか思えない。
■列があったら並んだほうがいい
たとえば、詐欺師は自分の詐欺を完全なものにするために、できうるかぎりの努力をします。その努力をまっとうなことに使えば必ず成功するくらいの労力を注ぐ。でも、そうしたまっとうな道は選ばず、詐欺を選択する。なぜなら、「詐欺をしたほうが利得が大きい」という考え方にとらわれてしまっているからです。そういう人間が、一定程度、いやそれ以上にいるのです。まあ、詐欺を一種の芸術であり、完璧な詐欺に生きがいを感じるなんていう人もいるでしょうが、それは別の話です。
私の場合は、たとえば列があったらそこに並ぶでしょう。人には与えられた条件というものがあって、それが公平性を担保しているならば粛々と受け入れるべきだと考えるからです。並びたくなければ、食べないまでです。
何らかの特権を使って、人よりも先に店に入って、おいしいはずの料理を食べても、どこか無味乾燥なものになってしまうような気がします。どんな見事な料理であっても、自分が特権を使ってそれにありついているという意識になれば、本当においしく感じるかどうかは疑問だし、あまり楽しいことではないような気もします。
ここで、その人を満足させるのは特権意識だけです。この特権意識たるや、その人間のさもしさを浮き彫りにしているだけです。貧乏人のひがみかもしれませんが、貧乏人には貧乏人だけが味わうことのできる喜びというものがあると信じたいですね。
■日本人の労働観は1980年代を境に変化した
私は、自分が元気に充実して働いていられて、誰かに休みを譲れるのであれば、譲ってあげてもいい、と思います。きれいごとだと言われるかもしれませんが、零細企業の社長しかやったことがなく、有給などとは無縁の、休みなしの生活を続けてきたのですから、これくらいは言わせていただいてもいいでしょう。
「有給休暇とは、働くことをより楽しく感じることができるようにリフレッシュするためにある」のであって、有給取得のために働いているわけではないからです。なのに、労働と休暇における本末の逆転現象が、このところ顕著になっているように感じます。
あなたが指摘した「労働者の権利はすべて使い切る」という発想は、日本人全体の労働観が1980年代頃を境にして少しずつ変化した結果なのです。80年代を境にして、日本人全体が、自己意識を、生産者から消費者へと軸足を移した。意識のうえで、多くの労働者が、自分を生産者ではなく消費者として規定するようになったということです。
■労働は「消費のための手段」となった
それ以前の日本人は生産者でした。多くの人々が第一次産業、第二次産業の生産業に従事していましたから、消費というのは、自分が生産し、生産した幾分かを消費で買い戻すという、ささやかな楽しみだったのです。
それが、あるところから「消費をするために働く」ようになった。つまり、働くことが、消費をするための作業になったのです。それ以前は、働くこと自体が目的でした。なぜなら、それ以外の働き方をしようにも、できなかったからです。月曜日から土曜日まで働きづめに働いて、日曜日は疲れ切った身体を休める。生きるとは、働くことだったわけです