https://news.biglobe.ne.jp/trend/0620/bso_230620_1996222105.html

2021年2月、千葉刑務所を満期出所した。2005年7月、26歳のときに逮捕、勾留されてから、足掛け17年もの月日が経っていた。年齢は43歳になっていた。


「囚人たちは出所したら『甘い物を食べる』とか言うけど、そういう食欲は一切なかった。外に出て自由になって、さて、どうするかってなった。最初はどこかに拠点つくって事業をやろうって。それと家族を立て直そうって思っていた。逮捕されたとき0歳だった子どもは高校生になっているはずだって。出所のときに渡された金は12万円ちょっと。そのくらいしかなかったけど、金は働けば何とかなる。何の心配もしてなかった」


 朝、手続きをして塀の外に出た。大きな壁、門が開かれた。そこには誰もいなかった。千葉刑務所の最寄り駅は東千葉である。街を眺めながら駅までゆっくり歩いて、総武線に乗って東京に戻った。電車内ではみんながみんなスマホをいじっていた。2000年代にはなかった風景だった。


誰も会おうとは言ってこない

「誰も俺と会いたがらない。何も求められない。単純に出所したから報告で連絡をしたわけ。電話口の雰囲気で分かるじゃないですか。少なくとも全員17年ぶり。テンションが低い。俺も無理に会いたいとも思わないし、あーそうなんだって。本当に仲がよかった何人かに連絡したけど、そんな感じだった。残念でしかない。本当にそうですよ、残念。そういう態度をとられて怒ってないし、何とも思ってないですよ。でも、残念」

 出所したら、また仲間を集めて事業をやろうと思っていたが、みんな様子がおかしかった。出所祝いどころか、誰も会おうとは言ってこなかった。

「家庭が壊れるまで、完全に壊れたと気づくまでは、家族をどうにか立て直して頑張ろうと思っていましたよ。妻とは刑期の前半までは、連絡を取っていたし。途中で俺のほうから連絡するな、って言った。その間に妻の心が離れているとは思ってなくて、のんきに大丈夫だろうって思っていた。

 うちの妻には贅沢をさせていたし、大丈夫だろうと。多少の金も残して懲役に行ったし、途中までは小遣いが入るようにもした。妻は俺が稼げる人間ってことをよく分かっているし、そういう理由で大丈夫だろうって。いま思えば、都合がいい勝手な考えだけどさ」

 何を話そうか決めて、妻の電話番号に連絡した。「現在、この番号は使われておりません」というアナウンスが流れる。刑期の半ばまで来ていた手紙の住所を確認したが、どうも別の人間が住んでいた。父親であるという証明を持って、17歳の子どもの住民票から現住所を探し当てた。妻と子どもは九州の片隅で暮らしていた。

九州の片田舎だった。住所はローカル線路沿いの老朽化した市営団地だった。白い外装は剝がれ、汚いゴミ捨て場、雑草だらけ、舗装がされていない歩道——ひどい家に住んでいるなと思った。呼び鈴はない。玄関を叩いた。

「まさか、妻に拒絶されるとは思わなかった。甘かった。『あんたが来たからには、私は明日引っ越しの準備をはじめなきゃならなくなった』って。この大変なときにって、俺の顔を見た瞬間に鬼のような表情になって、沸騰するようにキレた。引っ越す必要までないだろって言っても、そんな感じ。『次にあんたが来たら、私はその場で首をくくる』って言われました。追い返された」

 妻と子どもは生活保護で暮らしていた。化粧をしていない妻の服装はジャージで髪の毛には白髪が交じっていた。

「俺が悪いけど、簡単に言うと、妻はネット上のバッキー事件の情報を信じちゃった。そういうことだと思う。完全な拒絶だったから。本当にどうしようもなかった。会話もできない。だから経済的なことでさえ、俺は求められなかった。そうなると、どうしようもない。いい男がいて、いい生活をしていたら、まだ納得できた。逆に嬉しかった。でも、生活保護でひどい生活をしていた。ショックを超えて、絶望した。あのときは、ひたすら打ちひしがれた」

 すべてを失ったことに気づいた。仲間と思っていた友達からは敬遠され、頑張って支えようと思っていた家族から拒絶され、揚げ句に絶縁状を突きつけられた。絶望した。服役中にずっとイメージしていた20代の頃のようにいくつもの事業をまわして、家族に贅沢をさせるというイメージは完全に崩れ落ちた。